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うすむらさきの指







「せんせい、好き。」


字面だけ見れば、淡く可愛らしい告白。甘い砂糖菓子のような言葉であった。
しかし現実はどうか。必死である。
告白をしてきた生徒であるリヴァイも、それに返す言葉なく黙る教師エルヴィンも、どうにも必死である。
また、それぞれで必死の意味が違っていた。

リヴァイの手にはギラリと光る刃物がある。
ここは家庭科室であるから、教師の許可があれば包丁が使用できる。
先ほど教師エルヴィンは顧問をしている家庭科クラブのたったひとりの部員であるリヴァイに請われ、教師管理の戸棚の鍵を開けた。
今日の部活動に包丁を使うからと言われたのである。
まさかそれが自分に向けられ、調理以外の用途で使われることになろうとは。エルヴィンは露とも思わぬまま、呑気な顔でそれを開け、リヴァイに手渡していた。
今日の献立は何かな、オムライスも美味しかった、この季節だからシチューか?緩んでいた口元はさらにだらりと開くことになった。
あっと言う間にその鈍く光る刃先が胸先十センチまで突きつけられているのだ。動けば、必死である。


「リ、リヴァイ。どうしたんだ、ふざけるのは辞めなさい」

「ふざけてない。今日はバレンタインだろ?先生にあげる」

ぶっきらぼうに突き出されたのは丁寧にラッピングされた桃色の箱であった。


「待ちなさい、リヴァイ。説明を……とりあえずその、その刃物をこちらへ、」

「いいからッ、受け取れって!」

いつものリヴァイからは考えられないような声量で怒鳴られ、思わずビクと首が竦む。
グッと押し付けられた箱はエルヴィンの手のひらを少しはみ出すくらいの大きさだ。


「見て。」

包丁をこちらへ向けたまま、リヴァイはその手の甲を見せ付けた。
包丁を持つのは右手、包帯の巻いてあるのは左手である。
薬指が無い。あるべき場所に見当たらないのだ。


「先生にあげる……ッ俺の、左手の、薬指。」

「くす……!?」

「薬指って、結婚する指だろ、俺、先生と結婚してもいい、それくらい好きだ、好きッ」

息を継ぎ継ぎ、興奮したように言い終えたリヴァイの顔は赤らんでいる。
いや、実際興奮しているのだ。
刃物を人に向けていることにか、好いた相手の目の前にいることにか、その相手に薬指を捧げた愛の深さにか。
そのおそらく全部の理由をもって、リヴァイは肩で息をしてエルヴィンを見つめている。


「受け取ってッ、俺と、付き合ってよ先生ッ!」

リヴァイの薄く小さな唇からハアハアと熱い吐息が漏れる様子を呆然と口を開けて眺めていたエルヴィンだったが、ハと我を取り戻した。

「落ち着けリヴァイ、待つんだリヴァイ、」

「受け取ってくれなきゃ死んでやるッ、飛び降りてやるッ、教育委員会に言いつけてやるッッ」

「ま、待て待てリヴァイ、ちょっと待ってくれリヴァイっ」


「少年のイタイケな心を弄びやがって……ッこの未成年淫行変態教師ッッ!」

酷い言われ様だがそもそもこの教師エルヴィンは清廉潔白、リヴァイに指一本も触れていないどころかこれまで彼に明確な好意を寄せられた覚えすら無いのだった。
なので今回の凶行はまさに彼にとって青天の霹靂に過ぎた。

エルヴィンからすればリヴァイは理由無く突然激昂しているものだし、しかもその手に家庭科室の包丁をしかと握っているのである。
教師エルヴィンには驚いたり慌てたり宥めたりリヴァイの名前を連呼したりする他やれることがない。
とりあえず手の中には彼の薬指が入っているらしき箱がもう受け取ってあるのだし、これをそこらの机へ置きでもしようものならその切っ先はブスリ、エルヴィンのどこかを刺すだろうと思われた。持ち続けるより他に無い。

教師エルヴィンの担当教科は体育ではなかったが、器械運動、球技、陸上競技、なかんずく柔術などは得意な方であった。体格にも恵まれており、目の前の彼と比べるまでもない。リヴァイはとても小柄だ。
が、相手には刃物があり、またリヴァイの体育の成績は5だった。
とりわけ瞬発力と動体視力の良いことと言えば職員室の中ではよく話題に上った。
百メートルを十秒で走ったとか、暴走した車が突っ込んで来たのを蹴って逸らしたとか、飛んでいる燕を素手で捕まえただとかの眉唾物の話が職員室を賑やかにしていた。
本当ならそれはもう超人の部類ではないのか。戦って敵う相手なのか?エルヴィンはもう一度ブルリと震えた。


「た、食べてッ」

「は?!」

「食べろッ!食べろって言ってんだッ!それ!俺の……」

「ゆび?!」

「ゆび!!」

「わ分かった、分かった食べるからその包丁を降ろして……」

「早くッ!!!!!」
「ハイ!!!!!!」

教師エルヴィンは決死の覚悟で桃色の包装紙とリボンを解き、パッションピンクの箱を開けた。
これまたフーシャピンクの紙の細く切られた緩衝材の真ん中に鎮座するのは、薄紫の指である。
エルヴィンの意識は一瞬遠のきかけた。


「食べて……先生、俺を好きなら。」

エルヴィンがリヴァイからこれほどまでの好意を持たれていることに気付いたのは、重ね重ね言うが今日である。
リヴァイは教え導くべき生徒の一人だ、恋愛対象などという生々しいものとして見た事は勿論一度として無い。

しかし、目の前に突きつけられている包丁はギラリと不穏に光っている。
普段そう手入れもされていないはずの備品の包丁ではあるが、プスリと肌を貫けるくらいには尖っていよう。
あるいは、切れ味の悪い分痛い目を見るやも知れない。刺したり切り付けるより鈍い刃で殴りつけるようにされる方が苦しみは大きくまた長く続くだろう。
エルヴィンは青魚のようにタタキにされてしまう自分を想像し身震いした。


食べるのだ。このほっそりとして色白であっただろう薄紫の指を食べるしかない。それしか生き残る術は無いのだ。
ソッと摘み上げると不思議に重く、チラと覗く白い何かが何などと想像もしたくない。
とにかくこれを口へ運び、噛むのだ。飲み込めと言われたら如何しよう。嗚呼神様。エルヴィンは初詣で賽銭の小銭をケチったことを後悔した。ああ、五円で御縁、何て駄洒落のようなゲン担ぎをするんじゃなかったなァ、と心中で跪き膝を強かに打った。

ああ本当何故こんなことに?
平和な午後だった。生徒同士のチョコの遣り取りは実に微笑ましく、思春期の視野狭窄の勘違いで自分にチョコなどをくれる女生徒なども居たが、どの子も夢の中のようにいるようにフワフワとしていて、現実味の無い可愛らしいものだった。

ここまで血走った目で、迫ると謂うか、いやもう殺すと謂う気迫で臨んでくる者があるとは思いもよらなかった。
何故、何故如何してこんなことに。これまでの人生のこまかな後悔をあげつらうにはどうやら時間はなさそうだった。
リヴァイはもう待てぬと言わんばかりに貧乏ゆすりを始めていた。纏う空気は剣呑に過ぎた。


ええい、ままよ!とエルヴィンはその薄紫の指を口へ運んだ。
勢い良く突っ込み過ぎて奥歯まで来ていたので奥歯で噛んだ。
犬歯が皮膚を突き破るプチとした音、肉が弾けるような感触、薄い塩味もしくは鉄の味――などはしなかった。ゴリリと音を立てて何かが削れた。

「ふえ?ちょこ?」


チョコレート(英: chocolate)は、カカオの種子を発酵・焙煎したカカオマスを主原料とし、これに砂糖、ココアバター、粉乳などを混ぜて練り固めた食品である。
略してチョコともいう。ショコラ(フランス語: chocolat)と呼ばれることもある。
チョコレートは、中米、南米に植民地をもっていたスペインハプスブルク家が植民した中南米でとれるカカオを原料として、初めに「飲むもの」として発明された。
現在みられるチョコレートは、イギリス人がチョコを固形した食べ物としたことによる。
日本でチョコレートというとベルギーが有名であるが、チョコレートの歴史にとってみれば、オーストリアハプスブルク家の人々がその進歩に決定的な役割を果たしてきた。
スペインハプスブルク家から、本家筋にあたるオーストリアハプスブルク家に伝えられたのである。
ベルギーチョコとは、つまり、ドイツまたはプロイセン、オランダ、オーストリア、スイスなどの中欧の国々から西欧、東欧、南欧、北欧に伝播したというのである。
オーストリア=ハンガリー帝国の絶世の美女だった王妃エリザべートが愛したザッハトルテなどのチョコお菓子は世界的に有名である。
(wikipediaより)


脳内にwikipedia出典の仰々しいチョコレートの項が流れる。
口内に仄かなカカオの風味、渋みがほんの少し感じられたあと、噛み締めると洋酒の芳醇な香り付けのされたチョコレートの甘みが広がった。甘過ぎない、大人の味という奴である。

成る程、これはつまり、チョコレートである。


頭の中が感嘆符と疑問符でいっぱいになった瞬間、パァン!と景気の良い音がした。
リヴァイはいつの間にか包丁の代わりにクラッカーを持っている。パーティーで打ち鳴らすアレだ。
たった今まで緊迫していたこの場にまったくそぐわない浮かれたソレから色とりどりの紙くずが飛び出て散っている。
火薬の匂いが家庭科室に充満した。


「さぷらーいず。」

リヴァイの英語の成績は3である。特にその発音は駄目だった。
教師エルヴィンにはカタカナにも聞こえなかったSurpriseの意味がぐるぐる頭を巡る。
そういえば昨日BONNIE P○NKを聴いたのだ。初期にSurprise!という曲がある。
Surprise!ダディ Surprise!マミー。そう歌っていた。そうだリヴァイの両親がいるのなら今顔が見たい、ああ親の顔が見たい。BONNIE P○NK、彼女の声は初期と現在とで大きく変わっているように思えるがどうか?
エルヴィンは混乱している。そして漸く結果が出る。


「……偽物か……」


「さすがに指切るのは痛えだろ。痛いのはいいんだが、先生ヒくだろ。ホラ包帯、ココで薬指折って巻いてある。指チョコの細工はハンジとミケと工夫したんだ。俺は美術は2だし、ミケはこういうの得意だから」

「……本物かと思ったぞ……」

「ほんとか?ミケに言っとく。喜ぶと思う」

いそいそと散った紙くずを何処から取り出したものか塵取と箒とで集め、親友を褒められ満更でもない顔をしている。
状況はまったくおかしいのだか、まったく普段の潔癖リヴァイそのものだ。


「……君の演技もだ。真に迫っていた。アクターズスクールに入所するのをお勧めするよ……そしてその才能を十二分に発揮してくれ……」

「あくたーずすくーるって何だ、劇団ひ○わりみてえなやつかよ」

「まあそんなところだ……ああ……驚いたな……サプライズか……」

エルヴィンの顔はもうスッカリ青褪めていた。
ヘナヘナと座り込んで床に手をついたが、少しもみっともなく思わなかった。
……生きている!生の喜びが満ち溢れ、ようやっと血が巡ってきた頃、ヒョイとしゃがみこんだリヴァイが涙目のエルヴィンへ目線を合わせた。

これこそ人形師の細工と言われても頷ける、小作りで部品それぞれも縮尺の短かな、表情の豊かでないのが勿体無く思える少年リヴァイの顔だった。
キョトとした目をして見つめている。小首を傾げると、少年らしさは更に際立った。


「……告白は、さぷらいずじゃない。」

「え?」

「俺、先生が好きなんだ。」



「家庭科クラブ、毎日楽しみだった。先生は何も思ってないんだろうなって分かってたけど、どうしても言わなきゃって。
 言いたかったんだ。今日。好きって。」

「リヴァイ、」

「脅かして悪かった。でも先生、こうでもしないとずっと先生のままだろ。先生のお面を被ったまんまだ」

キリと締まった表情で言い募る。語調は静かだが、そこへ込められた思いはどうやら激昂してみせた先ほどと同じようだった。
相手の心に、人知れず丹念に研いだ自分の心の切っ先を付きつけるような、真直ぐな、ただ真直ぐな思いだった。


「先生が好きだけど、みんなと一緒の先生じゃイヤだ。俺は先生じゃないときの先生だって見たい。
 せんせい、俺と付き合って。それで、みんなの知らない先生、見せて。」

家庭科室は静まり返っていた。
校庭からの部活動の声や、廊下からの女生徒たちのさざめきも聞こえない。
ただ、エルヴィンの耳には自分の心音のごく早い事と、錯覚かも知れないがリヴァイの心音さえ知覚できた気がした。
それしか室内に音はなかった。

そこにパチとリヴァイの瞬きの音が聞こえ、ああこの子の睫毛はわりに長いのだな、睫毛が下を向いているから影のようになっているのか、下睫のがもっと長いか、と詮無き事を思い連ねた瞬間、それは近づいてきた。
寄せられた吐息は甘く湿っていて、やわらかくそれが触れたと感じた刹那にすぐ離れた。触れたのはどうやらお互いの唇だった。
これはキスである、ともうずっと鈍ったままの頭がやっと判断するとボと顔が燃えた。

リヴァイも同じ様子である。鼻の頭まで真赤に染まっている。
彼に至っては自ら仕掛けておいてその体たらくであるから幼いと言わざるを得ないがそれもその筈、リヴァイは未だ十五才である。
その事実に思い当たってエルヴィンは頭を抱えた。自分は紛うことなき清廉潔白な教師である。

いや、清廉潔白な教師であった、と言うべきか。
たった今そうではなくなった。エルヴィンは教師であるが、今この場で生徒に劣情を催した。
そして、教師である事を今この瞬間は辞めたいと思った。
もう一度、彼と口づけをしたいと思ってしまったのだ。


吊り橋理論と謂うものがある。


吊り橋理論(つりばしりろん)は、カナダの心理学者、ダットンとアロンによって1974年に発表された「生理・認知説の吊り橋実験」によって実証されたとする学説。「恋の吊り橋理論」とも呼ばれる。
生理・認知説は人は生理的に興奮している事で、自分が恋愛しているという事を認識するというもの。実験のみで厳密に立証されている訳ではないが概ね正しいとされている[要出典]。
実験は、18~35歳までの独身男性を集め、渓谷に架かる揺れる吊り橋と揺れない橋の2ヶ所で行われた。男性にはそれぞれ橋を渡ってもらい、橋の中央で同じ若い女性が突然アンケートを求め話しかけた。その際「結果などに関心があるなら後日電話を下さい」と電話番号を教えるという事を行った。結果、吊り橋の方の男性からはほとんど電話があったのに対し揺れない橋の方からはわずか一割くらいであったというものである。揺れる橋での緊張感を共有した事が恋愛感情に発展する場合があるという事になる。
(wikipediaより)


教師エルヴィンの頭の中を検索語句が走破するとき、wikipediaの出典ばかりになるのはどういうことであろう。
エルヴィンはwikiマラソンをすることが多かった。一つの語句を調べているうちに好奇心から他のリンクを踏んでしまい、そのリンク先からはまた別のリンク先を、そのまた別のリンク先からはまたまた別のリンク先を、それですっかり日が暮れている。そういうものだ。
あれが癖づいていると言っても良い。脳内の頁を繰ると、エルヴィンは思った。

これを意識し計算して仕掛けていたのなら大したものだ。
凶行で揺さぶって教師の仮面を剥がし、素顔のエルヴィン・スミスへキスをする狙いがあったのなら。
エルヴィンはいつの間にかすっかり教師ではなくなっていた。

「……先生、返事は?」
まだ、聞いてない、とあどけない顔つきで零す。

ああ本当にすっかり、すっかり落ちてしまっている。
顎を引いた仕草が、不安と期待とに震える瞼の端が、ぽかりと開いた口が、こんなにも可愛らしく思える。
リヴァイの周りの空気すら、色濃く感じられるのだ。それは安価な包装紙のような、桃色だった。

「せんせい、ねえ、」

エルヴィンには告白の返事など頭のてっぺんから飛んで行っていた。
今更そんなことなど。言葉など。

エルヴィンは自分の唇をなぞってそれを思わず手で覆った。


――そんなことより、キスの続きが猛烈にしたいんだ。



うすむらさきの指はどの拍子にだったか床に落ちて、ふたりを指していた。
人差し指でもあるまいに、とは誰も気づかなかったし、言わなかった。
ただふたりの影が重なるばかりである。









 

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