スパイの唄
スパイがくるぞ。
スパイがきて、わるい子さらわれ行っちゃうぞ。
巷に溢れる噂に、みょうちくりんな節をつけた流行り歌を、エレンは口ずさみました。
「なあ、アルミン。スパイって怖いのかな。鬼みたいな顔をしてんのかな。」
「そんな、スパイだって人間だよ。ふつうの人間の顔のはずさ。」
「ふたりとも、遅れる。急ぐべき」
三人は塾へ向かう足を速めました。
三色それぞれ着物の袖が振られ、カランコロンと下駄が鳴って、おしゃべりはそこまでになりました。
ガラと勢いよく戸を引いて、エレンがまず部屋へ入りました。
「リヴァイ先生、こんにちは!」
「こんにちは。リヴァイ先生。」
「・・・・・・こんにちは。」
「今日も元気が有り余ってるな、エレン。アルミン、お前の読みたがっていた本は帰りに渡す。ミカサ、そう睨むな。」
エレン、アルミン、ミカサの三人は、同じ私塾へ通っている近所同士の幼馴染でした。
私塾はアッカーマン家が代々やっているもので、今では長子のリヴァイが教師役をしておりました。
生徒は十五人ほどの小さなものでしたが、別に商いを持つアッカーマン家には殆ど道楽のようなもので、
授業の終わりを八つの鐘が告げ、子どもたちが屋敷で遊びはじめても、リヴァイが特に咎めるようなことはありませんでした。
リヴァイは無愛想にも見えましたが、本当のところは心根の優しいリヴァイを慕う子どもも多くこの近所にはおりました。
エレンもそのひとりで、顔に見合わず美しい字を書き、学校の教師よりずっと教え方の丁寧で熱心なリヴァイに憧れ、まとわりついては、子どもたちの遊びへリヴァイを誘うのでした。
「先生、明日も一緒に隠れ鬼、してくれますか?」
「ああ、お前が明日も、いい子でいられたらな。」
その日、筆入れを忘れたエレンは、塾へ引き返しました。
一度家まで帰りましたので、スッカリ日は暮れ、いつもの道もうす暗く、他人の顔。
付いて行こうか。と訊いた母へ虚勢を張って、ひとりで行ける。と答えて家を出てきたエレンは、やっと見えてきたアッカーマンの屋敷に、ホッと息をつきました。
この時分には点いているはずの灯りが門扉にはなく、エレンは不思議に思いながら、屋敷の裏の教室へと回りました。
すると、普段は閉じきりになっている、白い壁の蔵の小窓へ、小さな灯が点っています。
「・・・・・・が、・・・・・・だろう。」
「・・・・・・、・・・・・・だから」
洩れ聴こえる声のひとつはリヴァイ、もうひとつは、低い大人の男の声でした。
エレンはそうっと、背伸びをして、小窓を覗いてみました。
行灯の火が、広くもない蔵の中をぽうっと照らしています。
床へ座り込んでいるリヴァイはいつも以上に眉間に皺を寄せていて、しかしその表情には怒りや嫌悪というものが見て取れません。
そのまん前へ座っているのは、がっしりとした洋服姿の大男。
行灯の火に輝くような金色の髪です。
リヴァイは子どもの目から見ても小柄でしたから、その並んだ大男の懐へ、すっぽりと入ってしまいそうなほどでした。
驚いたのは、まずそのふたりの距離。
そして俯くリヴァイの床へついた手を、その大男が握り締めていることでした。
「リヴァイ、今夜こそ決めてくれ。ずいぶん待った。もう、ここへ来る事は出来そうにない。
今だって、かなり危ない橋を渡って来ているんだ。分かるね?」
「お前の立場は、よく分かってるつもりだ。だが、・・・・・・」
「何が怖い?この国を売る事か?これからの仕事についてか?」
エレンはギクリとしました。
――国を売る、だって?
エレンは、新聞を眺めて厳めしい表情をしている父を思い出しました。
――何だってそんな顔してるんだよ、父さん。
――エレン、この国はね、いや、世界は今、とても難しい情勢になって来ているんだ。
ふうん。と首を捻ったエレンでしたが、流行り歌でスパイというものを知ったのでした。
スパイはこの国に入り込んで、この国を売り捌く算段をつけにきてるんだ。
秘密を買い付けに。
さあ、悪い子は攫われるぞ。
――あの男はスパイなのか?
エレンはどきどきして心臓の飛び出してきそうな口を押さえて、じいっと蔵の中に目をこらして聞き耳を立てました。
「私にはお前が必要だ。お前は私の傍で働くべきで、こんなところに居ちゃいけない。
これまでに、その話は繰り返ししただろう?何を躊躇うことがある。」
「・・・・・・お前のことは信用してる。お前の言うことは、きっと正しい。
これから始まることを、早く終わらせるためにも、誰かが働かなくちゃいけねえ。汚くて、暗い仕事を。
ただ、エルヴィン。誓ってくれ。俺の死体なんか、拾ったりなんかしなくていい。捨てて行ってくれ。
ひとつだけ。お前が憶えていてくれると誓ってくれるのなら、俺はそれで、お前について行く。」
握られていた手を、その上からギュウと握り返すとリヴァイは、エルヴィンを見上げ、見詰めました。
行灯の火がチラチラと揺れ、まるでその瞳に入り込んで燃えているようです。
ゆらゆら、ちらちらと揺れるほのおの瞳で、呼吸を忘れるほどに、見詰めています。
「――リヴァイ。誓おう。私のここへ、皮膚でもなく、骨でもなく、心臓へお前の名を刻もう。」
男は大きな手のひらをリヴァイの頬へ当てると、顔を傾け、リヴァイへ口づけました。
その手へ手を重ねたリヴァイは、瞼を閉じて、それを受け入れています。
唇を交わすたび、ふたりは瞼を開け、互いの瞳を見ると、また瞼を閉じました。
約束事を、そっと瞳へ、瞳の奥へ刻むように、何度も何度もそれは繰り返されました。
そして最後にひしと抱き締めあうと、行こう、とどちらのものか分からぬ誘い声が聞こえ、フッと火が落とされました。
暗やみで塗り潰された窓から離れると、エレンは一目散に、家へと走りました。
それから、
アッカーマン家の長子が行方知れずだと朝から町は大騒ぎで、エレンはどきどきどきどきとする胸を押さえ、固く口を閉ざしました。
数日が経ち、数ヶ月が経ち、数年が経つと、誰もリヴァイのことを口にするものは居なくなりました。
おおきな戦争がはじまり、それが終わった頃エレンは、焼け残ったアッカーマン家の蔵に、あの日のリヴァイを思いました。
とおい国のどこかの町に、リヴァイのつめたい亡骸は打ち捨てられているのだろうか、と。
あの男の心臓に、リヴァイの名があるのなら、それはきっと哀しい事では無いのだと、エレンは思いました。
スパイがくるぞ。
スパイがきて、よい子さらわれ行っちゃうぞ。
一昔前の流行り歌が、焼けた街角へ、ちいさく響き渡ったのでした。