宿題
夏休みの終わり、宿題を一つだけ忘れていた。
寮のクーラーは酷暑に負けて故障中だ。
それならと図書館に向かったところ、突然の雨に降られてしまった。
「あ~、ちくしょう。やっちまった……」
高い声が出て、舌打ちする。
いつもなら折りたたみ傘を常備しているのに、近所だからと油断した。
Tシャツの胸はこんもりと膨らんでしまっている。
短パンの尻はパンパンだし、一回り縮んだ足にはサンダルが余っている。
そう、俺の身体はすっかり女子中◯生になってしまったのだ。
母さんが死んで俺を引き取ったのは、ケニーという伯父だ。
世界を飛び回るケニーに付いて行った先で、俺は不思議な泉に落ちてしまった。
呪泉郷、と呼ばれるそこには大小100以上の泉が湧いており、それぞれ悲劇的な伝説がある。
その一つ、娘溺泉に落ちた俺は、水をかぶると女になる妙ちくりんな体質になってしまったのだ。
「クソ野郎、次会ったらタダじゃおかねえ……」
呪いの解き方を探すと言って出て行った伯父とは数年間会っていない。
いない人間にいつまでも悪態をついていても始まらないので、とりあえず口を閉じて、来た道を引き返そうとした。
その時だった。
「にゃ~ん。」
猫の鳴き声が聞こえた。
可愛い。もう声だけで可愛い。
どこだ?と周りを見回すと、その声の主はいつの間にか足元に居た。
「か、かわいい……」
「にゃん。」
薄いグレーの被毛はふわふわで、何とも手触りが良さそうだ。
丸っこい頭をぐりぐりと脛に擦りつけてくる。可愛い。
顔周りは白く、目の上の模様はまるでグレーの眉毛のようだ。
明るいみず色の瞳はビー玉が嵌っているようだった。
にゃあ、と鳴くたび、目が細められる。それも可愛い。
可愛い。とにかく、すごく綺麗で、すごく可愛い猫だった。
語彙は死んだ。俺はもう、可愛いしか言えなくなっていた。
「可愛いな、お前……。ひとりか?お前も雨宿りか?」
「にゃん。」
「そうか。雨降りは困るよなあ……」
「にゃ。」
猫がまるで話が分かるように返事をするので、嬉しくなってしまった。
そうっと手を伸ばすと、猫は指先にキスをするように鼻先をくっつけた。
するりと腕の内側に入り込んだ猫は、撫でて欲しそうに目を細めた。
「いいのか?撫でても?」
「にゃん。」
どきどきしながら、手を伸ばす。
思えば、男の姿のときは顔が怖いのか、動物は寄ってこなかった。
得になることもあるもんだな、と思いながら、そうっと猫の首の辺りを触ってみる。
「わ……」
やわらかい。なんて毛並みの良い猫だろう。
とろけるような触り心地に、遠慮しながらもつい手が伸びてしまう。
耳の後ろをゆっくりと撫でてやると、ごろごろごろ、と低い音が聞こえてきた。
御機嫌な様子だ。良かった。
猫はいよいよ機嫌を良くして、今度はごろんと転がってほわほわの腹毛を見せつけた。
ふわんふわんのほわほわだ。
出来るなら、そのお腹に顔を埋めてスーハーしたい。
女の姿のままなら、あまり恥ずかしくなくそれが出来るだろう。俺は悩んだ。
「あ……お前、背中!」
転がった拍子に泥が付いてしまい、背中は泥だらけだ。
小さな傷も見つけた。
絆創膏と消毒液くらいしかないが、応急処置なら出来るだろう。
幸い、家はすぐ傍だ。
「おいで、拭いてやる。」
抱き上げると、抵抗もせずにごろごろ言っている。
程なくして家に着くと、猫はタッと飛び降りて、先頭を切って部屋に入っていく。
なかなか図々しい猫だが、猫だから許す。可愛いので。
風呂と消毒、どちらが先だろうと悩んでいると、猫が膝に乗ってきた。
猫は立ち上がり、前脚をTシャツの胸元に置いた。
そして手(前脚)を交互に動かして、胸(というかおっぱ……)をふみふみと踏み始めた。
そういえば、子猫は母猫のお乳を揉んで出を良くすると聞いたことがある。
大きくなってもやわらかい毛布なんかを揉む癖があるそうで、リラックスしている証拠ということだった。
ごろごろごろ、と音も聴こえる。
俺に気を許して、甘えているのだ。
「か、かわいい……!」
可愛い!とにかく可愛い!
猫、最高。最高の生き物だ。最強だし、最高だ。
男子中◯生の自分におっぱ……いがあるのはなかなか受け入れられるものではなかったが、
今日この時ほど、自分にやわらかいおっぱ……いがあることを喜んだことはない。
ふみふみふみ、ごろごろごろ。
猫は気持ちよさそうに目を細めている。心なしか、口角も上がっている気がする。
かわいい。かわいい。かわいい。
揉め揉め、好きなだけ揉め、と首すじをやさしく撫でてやると、いっそうごろごろの音は大きくなる。
ピー、と電子音が聞こえた。
風呂の沸いたのを知らせる音だった。
「おっぱ……胸は、後でな。おいで」
「にゃ?」
俺は猫の首根っこを掴むと、お風呂場へ連れて行こうとした。
「にゃ?!にゃ、にゃあ~!」
「え、あ、ちょ!」
猫は途端に暴れ始めた。
風呂に入れられることを察したのかもしれない。
慌てて風呂場に駆け込む。
「あ!」
「にゃ!」
風呂場に足を踏み入れた瞬間。
落ちていた石鹸に足を取られ、すってんころりん、転んでしまったのだ。
俺と猫はそのまま浴槽へダイブ、ざばーん、と大きな水音が立った。
途端、ぎゅう!と浴槽が狭くなったような感覚がして、俺は立ち上がった。
「ってえ……」
平たい胸と尻、骨ばった肩、浮き出た喉仏。
いつもの男子中◯生の俺に戻っていた。
「いたた……」
ごろごろとは違う、本当に低い男の声がした。
金色の髪と、青い目。あの、ビー玉のような瞳。
バンと張った大きな胸、割れた腹筋、長い手足。
お湯のせいでほの赤くなった肌。
肌、肌、肌。
裸の男だ。
「~~~ッ?!」
紛れも無い、裸の男がそこに立っていた。
「……もしかして、呪泉郷のお仲間かな?」
面白い旅行だったよ、アレはね。と男は言った。
俺は、まだ固まったまま。
「あ~~~。ゴメン。……とりあえず、バスタオルか何かくれる?」
さっきまで猫だったはずの男は言った。
さっきまで女だった俺は頷いて、りょうかいだ、と返した。
現実逃避する頭が、そういえば、と宿題の在り処を思い出そうとしていた。
明日は登校日。
宿題は、終わりそうになかった。