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少年団地


「ねえねえ、怪人青マントのうわさ、知ってる?」


「知ってる」

「知ってるわ」

「子どもを攫うんでしょ、青いマントを着て!」

女の子たちはお山滑り台の下の窪みにしゃがみ込んで、くすくす笑ってその話を続けました。

「緑じゃなかった?」

「あたしは青って聞いた」

「ウソ、緑よ」

「そう、青よ」

「みどり色の、青マントなのよ」

「信号の緑色を青って言うみたいにね。」


くすくすウフフと笑いさざめく女の子たちは、赤や桃色や橙のスカートが土につかないように、ちょっと気を遣っておしゃべりをしていました。

大きな公園は、とても大きな団地の真ん中にありましたので、三階の廊下からそれを眺めているエルヴィンくんにもリヴァイくんにも、女の子たちが遊具の下へ入り込んでおしゃべりしているのが見えました。

二人は廊下のフェンスからまだ細い足を出して、ブラブラと振っています。
夏休みのはじめ、お天道様は地を憎んでいるかのように焼けつきそうな日光を浴びせかけています。
短パンから出た太ももは汗で湿って、それがコンクリートに吸われるのが、エルヴィンくんには気持ち悪く感じました。

団地のあいだを走る熱風が、突き出た硬い膝小僧へ、ビョウと吹き付けて焦げそうなほどでした。

十三階建ての住宅はどれも干乾びそうな鼠の背中の色に似て、それが整列している様は眺めているエルヴィンくんを息苦しいような気持ちにさせました。
港湾から届く風は湿っていて、建物のあいだを吹き渡ると、それが喘鳴のようヒュウゴオ、ヒュウゴオとそれは酷い音になるのでした。


19XX年、海岸を埋め立てて造成されたその場所に、その巨大な団地群はありました。
名を、アサガオ団地といいます。
竣工した当時は高度経済成長期、近くの製鉄所や造船所に勤める人で部屋は埋まり賑わっていましたが、
熱病のように浮かれていた時代はいつのまにか過ぎ去り、残ったものは疲れた大人たちと、時代の巨大な墓標と化した団地ばかり。
今日も男たちがぞろぞろと蟻のように列を作っていなくなる昼間、昔の記憶を反芻するしかない老人たちと、舌なめずりして下世話なヒソヒソ話に興じる女たち、そして両親のどちらかのコピーに育つのでしょう子どもたちが灰色の墓地の番をしているのでした。


3街区6号棟の3階に、二人は座り込んでいます。
誰かが勝手に作った家庭菜園のナスが虫に食われている横に、ふぞろいのヒマワリが背比べしているのを、リヴァイくんは数えていました。
エルヴィンくんは無表情に、女の子たちの上げる嬌声に耳を傾けていました。

「女の子たちって、いつもくすくす笑ってる。何がそんなに面白いのかな?」

「さあな。行って、訊いてみろよ。お人形遊びに混ぜてもらえるかも知れねえぞ」

「着せ替え人形にされるのは嫌だよ。それに、今日はリヴァイが遊んでくれるんだろ。僕、団地って初めてだ」

大きなお墓みたいだ、給水塔だってあんなに高くて、とエルヴィンくんは立ち上がりました。そわそわと落ちつかない様子です。

「ねえ、ほら、行こう。こんなに広いんだから、周ってたらアッと言う間に夕方だよ」

座っているときだって、ずっときょろきょろと周りを眺めて物珍しげにしていたエルヴィンくんでしたから、待ち草臥れていよいよリヴァイくんを急かし始めました。

「しょうがねえな。下のブランコ、空くかと思ったんだけどな。まだとうぶん、やつら動きそうにねえ。行くか」

リヴァイくんがやっと腰をあげたのをエルヴィンくんは飛び上がらんばかりに喜んで、真っ先に駆け出しました。

「行こう!」

走り始めたエルヴィンくんに、靴紐が解けてしまったリヴァイくんは上擦り声で、あ、ああと返事して、まだまごまごとしています。

廊下には、夏休みで持ち帰ったのでしょうアサガオの青い鉢植えや、自転車や、ふやけたダンボールが隅に置かれて日に焼けています。

「ああ、行くよ、だから、走るなって!」

団地の熱風がまた1℃、少年たちの体温を上げて、吹き去ってゆきました。



*


 

1F





「一番上まで行くか?屋上、入れるとこ知ってんだ。キケンって書いてあるけど」

下に降りて、植え込みに落ちている棒切れを拾ったリヴァイくんは、それをカン、カン、とフェンスに当てながら歩きました。
手入れを忘れられた植え込みは草がボウボウに伸びていて、片っぽの軍手やら、靴下やら、水風船の切れ端なんかが落ちているのが見えます。
痩せた木に看板が縛り付けられて、まばらに立っていました。

『シンナー 吸うのはひと息 罪は一生』 『立小便禁止』 『犬のフンは飼主が責任を持って持ち帰りましょう』
『飛び出しちゅうい』 『不審者にちゅうい』 『ちかんにちゅうい』 『怪しい人 110番』 ……
錆びて塗装が落ち、可愛いウサギのイラストが火傷をした因幡の兎のような痛ましい姿になっているものもありました。

エルヴィンくんはそれらをしげしげと眺めながら、首を振りました。

「まだいいよ。最後にしよう。下からだんだんに攻略してくのが面白いじゃないか」

「そうかよ、じゃあ一階からな。ピロティ行くか?涼しいから」

リヴァイくんがフェンスをカンカンと鳴らすその棒を、エルヴィンくんが羨ましそうにしていたので、リヴァイくんはそれを放って寄越しました。

エルヴィンくんは棒を受け取ると、魔法の杖みたいだ。と呟いて手元でよく検分しました。

「……そういえば首吊りの木ってうわさだった気がする、この枝のあったの」

「へえ。じゃあ、呪いの杖だ」

エルヴィンくんは気持ち悪がる様子もなく、むしろ得意げに枝を振り回しました。

「……お前って、やっぱりちょっと変わってるな」

「よく言われるよ」




*


 

ピロティ





団地の玄関口であるピロティは広々としていて、日陰でしたし、団地の外から内へと風が吹き込むので涼しいのでした。

「ここがピロティ。だから何だって感じのとこだけど、雨の日はここで濡れずに遊べる。まあ、それだけだ」

「ふうん。……あ、ピザ屋さん」

エルヴィンくんの指差した方向、エレベーターホールでは二機あるエレベーターを、ピザ○トットの箱を持った男の人が待っています。
ピザ屋さんは、エルヴィンくんとリヴァイくんのほうをチラリと見た後、やって来たエレベーターに乗って上がって行きました。
隣に立っていた灰色のジャケットを着た男の人は、ピザ屋さんの連れではないようでしたが、同じようにエレベーターに乗って行きました。

「どっちも金髪だったな。あんまりこの団地では金髪、見ねえのに。俺お前が転校して来たとき、こんなにきらきらした奴がいるもんかって、ちょっとビックリしたんだけどな」

「僕はリヴァイを初めて見た時、ツバメに似てるって思ったけど。今はヒヨコに見える」

「何でだよ。黄色いんだから、お前のが似てるだろ」

「僕はあんなに小さくないよ」

クソ、お前だってチビだろ、もっかい測ろうぜ身長、とリヴァイくんはエルヴィンくんの背にピタリと背をつけました。
エルヴィンくんは、いいけど誰が審判するの?と笑いました。



*


 

5F




リヴァイくんが指差したところに、そのブランコはありました。

公園のある中庭に差し向かって、広いベランダのように突き出した場所は、誰にも忘れ去られたようにガランとしていました。
団地の壁と同じコンクリートのような地面に、背の高いフェンス、ひび割れて土のこぼれた雑草のプランターが幾つか、座面に水の溜まったベンチが二つ、錆びているブランコが一つ、小さくキイキイと音を立てて揺れています。

四人載りのブランコはきっと、もとはヒマワリに似た黄色だったのでしょう、塗装は殆どが剥げて、表面は赤錆が覆っていました。
握るとザラザラとした錆の感触がありましたが、エルヴィンくんは気にせずそれを掴んで乗り込みました。

「リヴァイ、向かいに乗ってよ。一緒に漕ごう」

「……あとで、手洗いに寄っていいならな。俺、ここで遊んだ後は洗わないと嫌なんだ」

「何で?」

「汚えし、自分まで錆びそうで嫌だろ。伝染りそうだ」

「錆だもの、伝染りっこないよ」

「分からねえだろ」

リヴァイくんが乗り込むと、ブランコはギイと揺れました。
差し向かいになって、リヴァイくんとエルヴィンくんが、交代に足を曲げて、ブランコを漕ぎます。

ギイコ、ギイコ、ギイコ、ギイコ。

歯が痒くなるような、顎の骨が震えるような、嫌な音がベランダから中庭へ響きました。

ギイコ、ギイコ、ギイコ、ギイコ。

エルヴィンくんの目の前には、リヴァイくんがしゃがんで、黒髪の振れる景色。
リヴァイくんの目の前には、エルヴィンくんがしゃがんで、金髪の振れる景色がありました。

エルヴィンくんは、ツバメが竜巻を起こしてるみたいだ、と思いましたし、
リヴァイくんは、母さんと散歩した河原のススキが揺れてるみたいだ、と思いました。

お互いの顔のほかには、あとは空だけ。
青色の絵の具をこぼしてしまったような空と、もくもくの白い雲。
本物のはずですのに、二人にはそれが、まるで絵に描かれたもののように見えました。
もう少し膝へ力を込めれば、投げ出されそうなくらいに、ブランコは大きく揺れました。

ギイコ、ギイコの酷い音は随分大きく、それが建物のあいだに響いたのか、迷惑に思ったどこかの部屋の扉が、バタン、と強く締められる音がしました。

二人はギクリとして、曲げ伸ばししていた膝を緩め、腕を突っ張ってブランコを止めました。
朽ち果てた揺りかごのようなブランコはそれでも、幼い二人を揺すろうとしばらくギイギイと抵抗していましたが、そのうちに止まりました。

「行くか」

「うん」



*


 

(中庭の話し声)




「ねえねえ、奥さん、聞いた?」

「聞いたわよ」

「ねえ。誘拐犯の話?少年ばかり、ネエ、五人も」

「気持ち悪いわねえ」

「ねえ」

「先月は死体騒ぎで、ネ、今月は誘拐だなんて」

「物騒ねえ」

「本当にねえ。怪しい人なんか見たら、警察に知らせなくっちゃ」

「そうそう、怪しい人と言えばね、ホラ……」

「ああ……あすこの御宅ね……」

「一昨日は八百屋さん、昨日は米屋さん……」

「ねえ」

「今日は……」

「ねえ」

「アラ、うわさをすればホラ……」

「いやあね。」

一度はそれで潜められた声が、またすぐにウフフ、クスクス。とちいさく弾けたように中庭から団地ぜんぶへ響きました。




*


 

8F




リヴァイくんは胸元から出した、紐のついた鍵で扉を開けました。

「上がれよ。汚いけど」

「お邪魔しま、す」

締め切られていた玄関は、入った途端にムワッとした熱をエルヴィンくんに吐きかけました。
リヴァイくんはちゃんと一度上がって靴を揃えましたし、エルヴィンくんもお父さんに躾けられたように、同じことをしました。
コンクリートの三和土には、リヴァイくんの青いスニーカーと、エルヴィンくんの茶色の革靴、大きなつっかけと、赤いハイヒールが一足ありました。


「リヴァイのお母さん、お家にいるの?」

「いたり、いなかったりだ。いる時は寝てることが多いな。今日はいねえ」

リヴァイくんがこっち、と案内した洗面所で、ギュウギュウになりながら二人は手を洗いました。
薄い橙色の石鹸の小さな欠片がいくつか赤い網に入れられており、それで洗い終えると、二人の手からは清潔なにおいがプンと香りました。

家の中は意外なことに雑然としていて、エルヴィンくんは少し吃驚しました。
リヴァイくんは学校で美化委員会に入っていましたし、クラスでも清掃係をしています。
それにリヴァイくんのお道具箱は、担任の先生がお手本にしなさいとみんなに見せて回るくらいに整頓されていました。
(エルヴィンくんのお道具箱も、汚いわけでは決してありませんでしたが、虹色に透けるカゲロウの羽や、まだ知らない植物の葉、猫みたいな形の石なんかが入っていて、お手本には程遠い様子でした。)

そんなリヴァイくんのお家なのに、テーブルの上には食器やプリント類、鏡台には口紅や化粧水の瓶、流しには麦茶の瓶が置きっぱなしになっているので、エルヴィンくんは普段のリヴァイくんからは想像も出来ない様子だと思いました。

「散らかってるだろ」

「うちもこんなものだけど。わりと、そうだな、意外だった」

「俺の母さん、片づけが苦手なんだ。埃なんかはねえだろ、俺が掃除してるから。でも、片付けだけは駄目なんだ。 俺が片付けた片っ端から、母さん、散らかすから。こないだなんて宅配屋さんに押すハンコ一個のために、タンス全部開けてたぜ。参っちまう」

堪りかねているのか、そんなふうに饒舌になったリヴァイくんは冷蔵庫を開きました。
冷蔵庫の中には卵が三四個、しなびた葉っぱのような野菜が二三本、あとはタッパーばかりです。
リヴァイくんはそこから、カルプスの水玉の瓶を取り出すと、今度は流しでコップを濯ぎ始めました。

「氷はあるから、カルプス飲もうぜ。好きか?カルプス」

「うん。ありがとう」

テーブルのある台所の壁には、フリージアの絵が入った額縁がかかっています。
エルヴィンくんがその花をどこで見ただろうと思い出していると、トントン、と壁から音がしました。

「何の音だろう。ノック?」

「まさか。隣、人は住んでるけど昼間はいねえよ。保育士さんだったかな。たぶんそこに配管が通ってるんだろうって、母さんが言ってた」

「ふうん」

変なふうに音が響くものだな、とエルヴィンくんは思いましたが、大きくもないその音が数回鳴るうちに、気にならなくなってしまいました。

リヴァイくんは冷凍庫の氷(これはたくさんあるようでした)と水道水で作ったカルプスを、エルヴィンくんの前に差し出しました。

「ストローは?」

「ねえよ、そんなん。店じゃあるまいし。お前んち、あんのか?」

「カルプスとオレンジジュースのときは、父さんがしましまのを差してくれる」

「へえ、いいな、しましま。うち、母さんとケニーだけだから。あんまり人ん家より、色々足りてねえんだ。ティースプーンとか」

「うちだってそうだよ。父さんと僕と、ミケの二人と一匹きりさ」

「ミケって、猫かよ?三毛猫か?」

「ううん、犬。ブリアード。前髪が長いんだ」

「マギワラしい名前だな。犬なのに、猫みたいで」

そう言ってリヴァイくんは、冷たいところを持ちたくないような不思議な持ち方でカルプスを啜りました。
エルヴィンくんも口をつけましたが、リヴァイくんのお家のカルプスが随分薄くてお水の味がするのに吃驚して、一度コップをテーブルに置きました。

「うち、父さんはいないけど、ケニーが飯作ってくれるんだ。悪くないぜ、ケニーの飯。今度食いに来たらいい」

店の方でもいいけどな、とリヴァイくんは平気な顔でカルプスを啜っています。
エルヴィンくんはリヴァイくんに薄いよ、とは言い出せなくて、黙ってカルプスを飲み干しました。


その時、玄関のドアノブがガチャガチャと音を立てたので、エルヴィンくんは飛び上がりました。

「リヴァイ?いるの?お母さん、お店に鍵、忘れちゃって。開けてくれる?」

女の人の声でした。

リヴァイくんは「今、行く!」とドアへ向かって大声を出すと、空になったコップを流しに置いて小走りに出て行きました。
エルヴィンくんが台所をぐるうりと見回すと、開いている窓の向こうのベランダに真赤なブラジャーが干してあるのを見つけて、思わずギョッとしました。
エルヴィンくんはすぐに顔を逸らし、玄関に続く磨りガラスの戸を見つめました。
そこに濃いむらさき色の姿が写ったと思うと、戸が開きました。

「あら、こんにちは。いらっしゃい。」

入ってきたのは髪の長い、赤いワンピースの女の人でした。
リヴァイくんと同じ、暗やみで仄かに光るような青白い肌をしています。

「母さん、昨日話してた、エルヴィン。頭良くて、虫の名前とか全部覚えてるんだ。川の名前とか。テストなんか全部、百点で」

めったに笑わないリヴァイくんが、誇らしげな笑みで自分を紹介してくれているのを見て、エルヴィンくんは嬉しくも、恥ずかしくも思いました。

「まあ、そう。すごいのね。良かったらリヴァイにお勉強、教えてあげてね」

リヴァイくんのお母さんはそう言うと、にこりと微笑みました。
その笑顔がまるで、朝顔が開くようにきれいで、エルヴィンくんはドギマギしました。
前の学校の授業参観で見たお母さんたちの誰より若く、華やかで、まるでお姉さんのようだと思いました。
けれど微笑した口元を押さえるお母さんの小さな手が、細いけれど骨っぽく、青い血管がほんの少し浮いているのを見て、ああやっぱりお母さんという生き物なのだな、と思いました。


「リヴァイごめんね、お母さん今日遅いから。先に寝ててね。あとで兄さんがオムライス、届けるって言ってたわ」

「オムライス!……あ、」

リヴァイくんはお母さんによく似た顔をぱあっと明るくすると、隣のエルヴィンくんを思い出したのか、顔を赤らめて無理やりに難しい顔を作りました。

「……ケチャップ、無くなったからって。ケニーに伝えて。あと、ポテトサラダも。みかんのやつ」

小さな声で拗ねたように話すリヴァイくんに、お母さんは笑って、はいはい、と言いました。

「エルヴィンくん、お家の人に電話して、お夕飯食べていく?おばさんいないから、遠慮しないでいいのよ」

膝をほんの少し曲げて、目線を合わせてお話するお母さんに、エルヴィンくんもさっきのリヴァイくんのように頬を桃色に染めて、両手を振りました。

「いいえ、あの。父が、用意してくれていますから。また今度」

「そう。お料理なさるの。素敵なお父様ね」

お母さんはやわらかく首を傾げると、また是非、食べて行ってちょうだいね。と優しい声で言いました。
お母さんが動くとき、お花の匂いがするのに、エルヴィンくんは気づきました。

「じゃ、リヴァイ、戸締りだけしっかりお願いね。エルヴィンくん、散らかってるけど、どうぞゆっくりしていって」

急がなきゃ、タクシー待たせてるの。とまるで急いでいないようにゆったりとした口調でお話して、リヴァイくんのお母さんは出て行きました。
玄関に積んであった靴の箱がバタバタと落ちる音がしたので、リヴァイくんは、ほらな。と呆れたような声でエルヴィンくんに言いました。


「きれいなお母さんだね。それに、お若いし」

「若くもねえよ、化粧が上手いだけ。……まあ、ちょっとは、きれいとも思うけど」

リヴァイくんは照れたように唇を尖らせて早口に、もうそれはいいだろ。行こうぜ、と言いました。

「そう言えば、ケニーって?お店のコックさん?」

「まあ、コックと言えばそうだな。母さんの兄貴だ。むかつくけど、料理は何でも作れる」

エルヴィンくんのコップを受け取って流しに置くと、リヴァイくんは部屋の電気を消しました。

「一緒にここに住んでるの?」

「いいや、住んでたこともあるけど、今は店の二階に住んでる。ビルが、ケニーのジョウシの持ち物なんだって」

「上司?」

「うん。優しそうな人で、俺にも母さんにもすげえ優しいけど。たぶんあの人、本当は、ケニーだけでいいんだろうな。ケニーにはちょっと、酷いけど。そんな気がする」

「そっか」

「うん。まあ、ケニーが楽しいなら、それでいいけどな。寂しくはねえ、おれは母さんと二人でいいし。……行こうぜ」

「うん。……あ。新聞、踏んじゃった。ごめん」

拾い上げた新聞は今朝のもので、大きな見出しが目に入りました。


『アサガオ団地で少年失踪5人目 先月には遺体も』


「アサガオ団地。……ここだ。リヴァイ、知ってた?」

「知ってるし、今日も帰りの会で言ってただろ。お前何してたんだ」

「図書館で借りた本を読んでたんだ。ランドセルに隠して」

「センセイの話、ちゃんと聞けよ。……先月、団地の下に朝早くにパトカーがいっぱい止まってたんだ。テレビカメラみたいなのもいたな」

「へえ。攫われるのは少年ばっかりって。不審者情報募る……」

エルヴィンくんはかぶりつくように、新聞を読み込んでいました。
リヴァイくんはもうスニーカーに足を入れて、紐を結びたそうに爪先をとんとんしています。

「おい、それがどうしたんだ。俺たちは二人だし、防犯ブザーもあるだろ」

気をつけてれば大丈夫だろ、小さい子どもじゃあるまいし。とリヴァイくんは言いました。
エルヴィンくんは新聞を持ったまま、靴を履かず玄関を出て行ったので、リヴァイくんは急いで追いかけなければなりませんでした。
左手には、エルヴィンくんの革靴。首には、お家の鍵を掛けなおしました。

「エルヴィン、お前、靴!」

「ああうん、ねえ、リヴァイ。僕、思い出したんだけど」

「何だよ。なあ、靴」

エルヴィンくんは真白な靴下の裏を灰色に汚しながらエレベーターまで歩くと、リヴァイくんを振り返りました。

「ピザ屋さんと一緒に乗った灰色の服の男の人。大きなボストンバッグ、持っていなかった?」

「……ああ、そう言えば。それが?」

エルヴィンくんの青い目が、きらきら光って見つめるので、リヴァイくんは少し眩しいような気になりました。

「チャックのところにね、赤い染みがあったんだ。あの時はケチャップか何かだと思ったんだけど。ねえリヴァイ、君はどう思う?」

「どう、思うって」

大きなソーダ味の飴玉のような瞳が、リヴァイくんを映し込んで光ります。
エルヴィンくんは、実にたのしそうに笑って、リヴァイくんに言いました。

「リヴァイ、探偵ごっこしよう。」

――やあ、ワトスン。いや、リヴァイは小さいから小林少年かな?

エルヴィンくんは歌うように弾んだ声でそう言うとやっと、リヴァイくんが取り落とした靴に爪先を入れました。

リヴァイくんがぽかんと開けたお口へ、中庭から吹きあがった生ぬるい風が、そっと指を差し入れて、去って行きました。

いつの間にか来ていたエレベーターの扉が開いて、また閉じました。



*



「何階へ上がって行ったか覚えてるのか?」



「エレベーターの表示が9階で一度止まったのを見た。その後僕らが乗るときには11階から降りてきたようだったから、どちらかかも知れない」

エルヴィンくんは声を少し潜めて、注意深く辺りを見回しました。
エレベーター横の階段でなく、棟の端のほうへ首を伸ばしています。

「ねえ、あっちは何?ここと同じコンクリートのじゃなくて、金属の階段が見えるけど」

「ああ、立ち入り禁止の階段だ。チェーンがされてるだけだから、潜りゃ入れるけど、高いから結構ゾッとするぜ」

エルヴィンくんの見遣る方向を横に並んで眺めながら、リヴァイくんは言いました。
リヴァイくんは運動神経がばつぐんで、休み時間のジャンプ競争でも一等でしたから、そのリヴァイくんが言うなら、相当な景色なのだろうとエルヴィンくんは思いました。

「折角だから、そこから上がってみよう」

「おう」

リヴァイくんはしゃがんで靴紐を縛りなおすと、一度きつく引っ張りました。
エルヴィンくんはそれを見て、同じようにしました。



*


 

非常階段



間近で見る鉄の階段は塗装がところどころ剥げていて、階段と階段のあいだから下が見え、普通の子どもなら足が竦んで動けなくなるようなところでした。

空へせり出しているようなその階段へ、エルヴィンくんは躊躇せず足を踏み入れました。
『立入禁止』と赤い文字で書かれた看板の下がっているチェーンを跨ぐと、下から風がボウ、と吹き上げます。
前髪が舞い上がって乱れるのを、エルヴィンくんは手で押さえました。
リヴァイくんは吹かれるままにしています。

「お前、見た目のわりに、勇気あるよな。コワイモノシラズって言うか」

「そうかな。僕ね、あんまり痛いってことが分からないんだ。それでかも知れないな」

エルヴィンくんはトンカンと軽快な足取りで階段を上がっていきます。

「痛いが、分からないって?転んでもぜんぜん痛くないのか?たとえば、画鋲を踏んでも?」

チクって痛むくらいか?一度踏んだけどすげえ痛えんだぜ、アレ。とリヴァイくんはその後ろからトンカン、同じように上がっていきました。

「触覚はあるから踏んだことは分かるけど、その、痛いってこと自体が分からないんだ。知らないって感じ」

「痛いって思ったことがないって?」

「まあ、そういうこと。……リヴァイ、向こうの端に、人がいる」

「てッ」

頭の中を疑問符でいっぱいにしたリヴァイくんは、突然立ち止まったエルヴィンくんの背中に顔をぶつけてつんのめりました。

「いてえ、突然止まるな。ビックリするじゃねえか。……人がいるって?」

「うん」

「そりゃあいるだろ。いないとこなんてない」

「あっちも非常階段じゃないの?立入禁止は同じじゃないのかな」

この6号棟には長い廊下の端と端とに、外へ突き出た形で非常階段がありました。
エルヴィンくんが指し示したほうは、反対側の非常階段でした。
リヴァイくんの記憶では、そこには同じように立入禁止の札があったはずです。

「いや、あっちも同じだった。立入禁止。どこにいる?」

「ほら、10階と11階のあいだ。分かるかな?」

二人は自然と声を潜め、手すりのフェンスに身を隠すようにしゃがみ込みました。
白のペンキのところどころに錆の出ている鉄のフェンスのあいだ、空と団地がしましま模様になっています。


「……ホントだ、誰かいる。……なあ、アレ、」

「――青マントだ」

エルヴィンくんは殆ど吐息のように小さな声でそう呟くと、フェンスに噛り付きました。
青い目を凝らして、非常階段を見つめています。

「みどり色の、青マント。怪人青マントだ!」

エルヴィンくんのお空より少し薄い色の瞳は、爛爛と輝いています。
リヴァイくんも吃驚した顔で目を見開いて、それを遠目に眺めました。

非常階段の踊り場に立っているのは、男の人のようでした。
黄土色のジャケットに、白いズボンの太股には紐が巻かれていて、深みどり色のマントのようなものを身に付けています。
背は高く、身体は筋骨隆々としていて、スーパーマンに似ているなとエルヴィンくんは思いました。
エルヴィンくんたちと同じように、髪の毛が下からの風に吹き上げられてなびいているようでした。
その髪が、エルヴィンくんによく似た金色でしたので、エルヴィンくんは一瞬お父さんかと思いましたが、違うようでした。
顔やそのほかの細かいところは、遠くて分かりません。

その人は、踊り場の手すりから身を乗り出さんばかりに前のめって立ち、胸を張っています。
その広い胸に風を受けて、マントはバサリと大きく翻りました。
男の人は左腕を勢いよく水平に広げました。
何かを指し示しているようで、しかしそれはどこかの方向というわけではないようでした。
ただ、指し示す、という意志だけ、エルヴィンくんとリヴァイくんの胸に強く伝わってきました。
大きな口を、息を吸い込むように開きましたが、声は聞き取れません。
強い声だ、と思いましたが、音は何も聴こえてこないのでした。


「――コラ!お前たち、何してる!」

「やべっ、逃げろ!」

近所の人でしょうか、突然後ろから怒声が上がり、エルヴィンくんとリヴァイくんは逃げ出しました。
階段を駆け上がって振り向いたときには、怪人青マントは影も形もなくなっていたのでした。



*


 

9F




「ねえ、見た!?見ただろ、リヴァイ!」

「ああ、見た。確かに見た……ッ」

非常階段からエレベーターホールまで全速力で走りきった二人の息は上がっていました。
今見たものが信じられないといった様子で、興奮し切って手を取り合いました。

「青マントだった。いた!本当にいた!ねえ、リヴァイ!」

「いた、いたな、エルヴィンッ!」

はあ、はあと肩で息をしている二人は、とにかく落ち着こう、タンマ、と今度は肩を叩き合いました。

「はあ、あっちの棟にはどうやって行くの?一度、下まで降りないといけないかな」

「いいや、最上階と七階と三階とに、渡り廊下がある。そこからなら……エルヴィン?」

リヴァイくんの話し途中なのに、エルヴィンくんはシーッと口の前に人差し指を立てて、903の表札のある家のドアへにじり寄って行きます。

風を入れるためでしょう、ほんの少し開いた状態で止められたドアの、下の方の隙間にピトと身体を寄せました。

「(おい馬鹿、なにしてやがる!)」

リヴァイくんはできる限り絞った声で、エルヴィンくんに耳打ちしました。

「(ピザのにおいがするんだ。どの部屋かは分からないけど。ピザ屋さんも灰色の男の人も、青マントも金髪だった。仲間かもしれない)」

リヴァイくんはいよいよ、エルヴィンくんの探偵ゴッコぶりに呆れて、はあ、と溜息をつきました。
けれど青マントを見た今は、ゴッコ遊びと笑ってもいられなくなりました。
本当に、誘拐犯がこの団地の中に紛れ込んでいるのかも知れないのです!


リヴァイくんは、目を凝らして薄暗い部屋の中を覗き見ました。

あかるい外とくらい内の差で、最初は見えなかったものが、目が慣れて、だんだんと見えてきます。
玄関の三和土には大きな男物の薄汚れたスニーカーと、突っ掛け。
ところどころが折れたり、曲がっているビニル傘。
半透明の袋にまとめられた空き缶からは、ビールのにおいがしました。
括ってある幾つかの雑誌の束、背の分厚い大きな本は乱雑に重ねられています。
廊下と居間を区切る扉は開いていて、ベランダから差す光が部屋を照らしていました。

黴臭い空気の中、チラチラと細かな埃が、光に透かされて舞っています。
通っていく風に翻るカーテンが、白い波のようだとエルヴィンくんは思いました。

畳の上に、少年が座っています。
近所の中学校の夏服を着て、その膝には、横たわってすうすうと心地良さそうに眠る男の人がいます。
男の人はスウェットを着て、無精髭を生やし、ぼさぼさ髪に、不摂生なのでしょうか目の下には隈がありました。
膝枕をしているような体勢で、男の人は頭を撫でられていました。
きらきらと日に透ける金糸のような髪を、少年は心のそこからいとおしそうに梳いてやっています。
額に玉のように浮いた汗が、男の人に落ちないように、何度も何度も手の甲で拭っています。

大きな大人の男の人なのに、まるで赤ん坊のように、少年に身を預けているようでした。
そして少年もまるで愛しい我が子を抱くような手と、表情をしているのでした。


不思議な光景に思わずじいっと見入っていると、エルヴィンくんはついには、少年と目が合ってしまいました。
吃驚して立ち上がりかけたエルヴィンくんへ、少年は、シー、と人差し指を立て、見過ごしてしまうくらい小さく、笑ったのです。

急いで踵を返し、去っていくエルヴィンくんとリヴァイくんには、少年の素足に縛られている、一本の縄に気づきませんでした。
捕まっているはずの少年は男の人を起こしてしまわぬように、何度も何度も、手の甲で汗を拭い続けました。



*



次に扉が開いていたのは、905号室でした。

太陽の光は、昼過ぎよりは弱まったものの、未だ勢いを失わず、二人の背中を刺しました。
ぴたりと身を寄せると、お互いの熱でくっついているところがジンワリ汗ばみました。

このお家は、わざと開けてあるのではなく、靴が挟まって偶然開きっぱなしになってしまっているようでした。
挟まっているのは男性物の革靴で、玄関のたたきにはもう片方と、別の革靴とが慌てて脱ぎ捨てたように散らばっています。
二つの革靴は随分大きさの違うもののようでした。

玄関には革靴、鞄、定期入れが、廊下にはネクタイやシャツが転々と落ちて散らばっていました。
酔っ払ったときの母さんみたいな脱ぎ方をする人がいるものなのだな、とリヴァイくんは思いました。

廊下側の部屋に続く扉にも、ベルトが挟まっています。
けれどさすがに、そこから中をうかがい知ることはできませんでした。

「(リヴァイ、こっち)」

エルヴィンくんはいつの間にか、廊下に面した窓に移動していました。
さっきのお家とは違い、窓は締め切られてカーテンが掛かり、部屋の中は随分薄暗い様子です。
カーテンの切れ間からソッと中を覗くと、そこにはお布団が一組ありました。
お布団のまわりには、黒い靴下と白い靴下の丸まったのが一つずつ、倒れた卓上ランプ、スラックスが二本。

掛け布団はへんに盛り上がって、小山のようになっています。
それが、ゆさゆさと揺れているので、どうやら中に生き物がいることが知れました。
昼間とは言え照明も点いておらず、窓にも分厚いカーテンのかかっている部屋の中では、掛け布団のシーツが水色なのかきみどり色なのか分かりません。

窓ガラスへ耳をつけるようにしてやっと、中の音がほんの少し聞き取れました。
どうやら布団の中からウ、ウというくぐもった声と、何かがぶつかる音がするようでした。
声が、ウウ、ウウと悶え苦しむようなものになっていき、病気だろうかとリヴァイくんが心配になったころ、布団の端からにょきと一本の腕が生えました。

薄闇にその腕は白く、指は柳のようにしなって、宙を掴もうとしています。
そこへもう一本腕が生え、最初に出てきた白い腕を捕まえました。
後から生えた腕は大きく太く、毛が生えていて肘が赤いので、鬼の手のようだとリヴァイくんは思いました。

白い腕がやっと投げ出されていた枕を探り当て、それにしがみ付くと、赤らんでいた指先までが真白になりました。
ヌッと突き出た赤い腕は、白い腕の肘のほうから這い出て、じりじりと指先まで強い力で辿ると、白い手の甲をギュウと握りました。
白い手はビクリとしたあと、赤い指が絡みつくのをされるがままにしています。
そのあいだに布団の揺れはいよいよ大きくなってきました。
ユサッユサッと掛け布団が大きく前後に揺れ、うめき声は、殆ど啜り泣きの様子。
ウウッ、アア、フウ、アア……と、いかにも苦しげです。
リヴァイくんは熱くて額から耳へ汗が垂れるのを、気持ち悪く思いました。

「うう……ッ、アー……ッ、でる、アア、ッ」

喚くような声がして、リヴァイくんはビクリとしました。
枕を握り潰そうとしているかのように強く掴んでいる白い手の、指と指のあいだに、赤い指が入り込んで、ギュウと握りこみました。

重なった赤い手を、白い手も握り締めました。
放したら死んでしまうような、そんな強さでした。

「うアッ……!あ、ア~~~……ッ!」

猫のあくびに似た高い声が長く伸び、布団が一際大きく揺れると、やっとそこで動きが止まりました。
声の伸びるあいだ中、手と手は縋るものが互いしかないように、きつく、握り締め合っていました。

「(行こう)」

エルヴィンくんがTシャツの裾を引いて、リヴァイくんはハッと顔を上げました。
エルヴィンくんの額にも、玉のような汗が浮いていて、リヴァイくんは、ああ、エルヴィンも暑いんだ。と思いました。

チラと振り返る横目で見た部屋の中では、二本の手が絡み合って心中したように投げ出されていました。



*


 

10F





「上に行く階段に、ピザ屋さんのチラシが落ちてる。ここの階段は他の階には無いね?」

「ああ。何でだか知らねえが、10階にはエレベーターが止まらねえんだ。9階から階段で行くしかない」

「防犯のためだろうね。多分、10階から上は、下より部屋が大きいんだろう」

階段の途中、リヴァイくんは中庭の公園を見下ろしました。
数えていたヒマワリが、今はとても小さく見えます。

「蝉の声が遠いな」

「太陽はあんまり近くなった気がしないのにね」

昇った先には、部屋が二つありました。
ポーチに面しているのは玄関だけで、窓は外を向いています。
右の部屋のドアポストには『投函禁止』の張り紙が、ドアノブには玄関ドアの鍵とは別に、南京錠がつ
けられていました。

「(こっちは空き部屋みたいだな)」

「(リヴァイ)」

左の部屋の前でエルヴィンくんが指を差す先には、足場のようになっている場所がありました。
面している窓の上には換気扇があり、台所だと知れました。

エルヴィンくんはフェンスに両手両足でしがみついて、伝ってそのベランダのような足場へ着きました。
リヴァイくんはフェンスの上へひょいと上がると、手を広げて綱渡りのように歩いて、足場へ着きました。
それがあんまりにも素早く、姿勢を崩したりする危なげな様子もなかったものですから、エルヴィンくんはリヴァイくんに小さな拍手を贈りました。

「(リヴァイ!すごい、まるでサーカスの曲芸師みたいだ!)」

「(……こういうとこで遊び慣れてるだけだ。お前もすぐに出来るようになる)」

リヴァイくんの頬っぺたがポッと赤くなりましたが、それが太陽だけのせいではないことはエルヴィンくんにも分かりました。


「――ああ。酷い汗だ」

男の人の低い声がして、エルヴィンくんとリヴァイくんは飛び上がりました。
どうやら、家の中からのようです。
二人は背伸びをして、ほんの少し開いた窓から中を覗きました。


そこはやはり、台所でした。

ガスコンロには薬缶が一つ、薄みどりの冷蔵庫の扉には『廃品回収のお知らせ』、床にはしんなりと寝そべる男の人が二人。
締め切られて直射日光の差し込む部屋には、水色の扇風機がけなげに首を振っていました。
けれど、萎れた青菜のようになっている二人の肌にはどちらも玉の汗が浮いており、扇風機の努力は無駄なことだと知れました。
金髪の男の人はピザ屋さんの制服を、胸元と足の間の釦を開けて、だらしなく着ています。
黒髪の男の人は、薄手の白のカーディガンは殆ど脱げかけ、腰には白い前掛け、その下は太股まで下がった黒いストッキングと、ひどく着乱れた格好でぐったりとしていました。

「"奥さん"……とても良かった」

ピザ屋さんが抱き込んでいた"奥さん"の旋毛に唇を落とすと、"奥さん"は閉じていた瞼を億劫そうに上げました。
滲んでぼやけたような瞳に光が戻り、何度か瞬きすると、奥さんは気だるげに身を起こしました。

「……何時だ」

「まだ日は高いよ。もう少し、ここにいても?」

奥さんはその問いには答えず、黙ってストッキングを上げ、立ち上がりました。
流しへやって来たので、エルヴィンくんとリヴァイくんはヒヤリとしましたが、幸いみどり色のブラインドとピンクの食器用洗剤で、二人の頭が見えることはありませんでした。

奥さんは蛇口を捻って緩慢な動きで手と口とを濯ぐと、コップに水を溜め、それを飲みました。
コク、コクと音を立て、喉仏が上下する様子を、エルヴィンくんとリヴァイくんにはよく見ることができました。
ひと筋、零れた水が白い喉を伝い、汗の浮く胸を伝って、前掛けに浸みました。

ピザ屋さんは後ろから奥さんの腰と肩をゆるく抱くと、奥さんの唇を奪いました。
はじめから侵略する気で舌を差し入れたピザ屋さんに、奥さんも明け渡すように舌を差し出し、浅く、そして深く絡ませ合っています。

舌に吸いつく、チュウという音が台所に響いて、二人は一度離れました。
奥さんはまた水を口に含むと、爪先立ちするようにしてピザ屋さんの首に抱きつきました。
ピザ屋さんはその重みに引きずられるように腰を折り曲げ、奥さんの唇を吸いました。

「ン……ッ」

二人の合わせた唇から溢れた水が二人の顎を伝って、ぱたぱたと床へ落ちましたが、二人は見ていませんでした。
瞼を強く瞑って舌先と唇の感覚に没頭して、差し入れた指で髪をかき乱すのに忙しいようです。
ちゅぽん、と濡れた音で、二人はやっと離れました。

ピザ屋さんは奥さんからコップを取り上げ流しへ置くと、傍らにあったピザの箱に触れました。

「ああ。……こちらはすっかり冷めてしまったね」

奥さんはチーズの固まってしまったハワイアンピザを手に取り、ピザ屋さんの鼻先へ無遠慮に差し出しました。

「どうしてくれるんだ?……ピザ屋さん」

いたずらっぽく、ほんの少し口角を上げた奥さんは、挑戦的な目でピザ屋さんを見つめました。
ピザ屋さんはおもしろそうに目を細めましたが、その目はどこかぎらぎらとして、まるで水銀のようだとエルヴィンくんは思いました。

「では、熱くしよう」

ピザ屋さんは差し出されたハワイアンピザにかぶりつくと、それを食べ始めました。
ピザ屋さんの口は大きくて、見ているこちらが食べられそうだと、リヴァイくんは思いました。
ピザ屋さんがパイナップルを噛み締めると、果汁が溢れ、床にぽたりと落ちました。
ピザ屋さんの大きな口がハムを咀嚼するのを、咽喉が飲み込むのを、奥さんは見つめています。
見つめているうちに、奥さんの肌は赤らみ、もじもじと内股に膝を擦りつけるようになりました。

いつの間にかピザはなくなり、ピザ屋さんは奥さんの手首を掴みました。

「あ」

びくりと竦んだ奥さんにかまうことなく、ピザ屋さんはピザで汚れた奥さんの指に舌を這わせます。

「美味しい」

ハムとチーズの脂でテカテカとした細い指を、ピザ屋さんは犬のように熱心に舐めていきました。

「ア……っ、や、やめ、」

平たい爪も、関節も、指のあいだも、手の甲も、掌の内側の柔らかいところも、全部舐めました。

「ひ、ィ……ッ!」

最後にがぶりと一口、薬指を噛むと、奥さんの身体が震えました。
結婚指輪のある根元に、くっきりと歯の跡がついています。

「ばか……、跡は、残すなって」

「今夜もダンナは帰ってこないんだろう?」

「……ああ」

「じゃあせめて今夜だけ、俺の奥さんでいて」

噛み跡に一度だけやさしく唇で触れた後は、もう、燃え盛る炎のようでした。

「あ……ッ、待っ、」

ピザ屋さんは荒々しく奥さんの唇を奪って、口内の深いところまでを貪って奥さんをくにゃくにゃにしてしまうと、奥さんの髪を掴んで後ろを向かせました。
流しに半身をつきお尻を突き出した奥さんの、戸惑う横顔が二人にはよく見えました。
ピザ屋さんは奥さんのお尻が透けている黒のストッキングに手をかけると、ソコを破りました。
ビッ、とストッキングの破れる音が台所に響きます。

裂けたのはちょうど割れ目のあたりで、白いお尻の肉が黒いストッキングにまあるく囲まれたようになりました。
小柄の身体のわりに大きめなお尻の殆どにはストッキングが張り付き、淫靡なグラデーションに透けています。
けれど、一番大事なソコは破られて露わになっており、空気に触れてヒクヒクと収縮していました。
白いぬるぬると透明なぬるぬるとで濡れたソコは、電気のついていない薄暗い台所でもてらてらと光っているのが分かるのでした。

「ホラ、さっきのでもう、いつでも入るようになってる。いやらしい奥さんだ」

「ぁ……ッ、みるな、える、ン……ッ?!」

ピザ屋さんは奥さんの口を大きな手で塞いでしまうと、「コラ」とうなじを噛みました。

「ッふ、うう、」

「足を開いて。できるね?」

うなじに浮いては垂れる汗をべろりと舐め上げ、ピザ屋さんは自分のソレを取り出しました。
ぶるりと大きく太く、青い筋がところどころに浮いて、薄い小豆色のようなピザ屋さんのソレは、最初リヴァイくんには何か分からなかったのですが、取り出した場所を考えて思い当たると、驚いて手も脚もカアと熱くなりました。自分のものと随分違うとリヴァイくんは思いましたが、もう一度しげしげと眺める勇気は出ませんでした。

ピタリとソコに当てられた熱に、奥さんは一度ぶるりと震えると、瞼を強く瞑り、観念したのか言われた通りに足を開きました。

「う」

「ホラ、吸いついてる。すぐに入りそうだ」

「ん、うう、ウ、ン~~~ッ」

ぬち、ぬちと粘着質ないやらしい音がソコから立ち、奥さんは何度も腰をびくつかせましたが、ピザ屋さんにはなかなか押し入る気配がありません。

「んぅ!ンン、くッ!」

ピザ屋さんの太いモノの先がヌク、と奥さんの潤んだソコをほんの少し抉るたびに、奥さんは髪を振り乱して悶えます。
柳眉をギュウウと顰め、殆ど啜り泣きのようにしゃくり上げては、腰をゆらゆらと揺らすのでした。

「奥さん、欲しい?ダンナに毎日入れてもらえなくて、アソコが寂しくて疼くんだろう」

ピザ屋さんは先のぷっくらと腫れた部分から、引っかかるようになっている部分まで、ぐちぐちとワザと音を立てて擦り付けました。
あからさまに煽られた奥さんの前も、パンパンに張りつめていやらしい汁を先から溢れさせています。
卵色の台所の床は、こぼした水と、二人の汗と、いやらしい汁とで濡れて汚れていました。
その床で滑りそうになりながら爪先立ちをしてグラデーションのお尻を高く揚げた奥さんは、もう我慢の限界のようでした。

「う、ふぅう、ウウ!」

「何?どうしたの、言ってごらん」

ピザ屋さんは奥さんの口元を抑えていた手を外し、今度は指で小さく短い舌を引っ張って外へ出しました。
引っ張られた赤い舌からは唾液が溢れ、それがまた床へ垂れています。

「ヒ、いれ、入れれ、いれひぇッ……!」

入り口を浅く抉るばかりで奥まで押し入ろうとはしない大きなソレに焦れ、奥さんはとうとうおねだりを始めました。
恥じらいよりも欲が勝ち、片手でみずからのソコを広げて、ピザ屋さんのソレに擦りつけるように動いています。

肌蹴たカーディガンから、不思議な筋肉の丸みと、骨の硬さの調和した白い肩がこぼれ落ちました。
二の腕の筋がピクピクとけなげに収縮しているのが、リヴァイくんにはよく分かりました。

「欲しいッ……ダンナのじゃないチンポッ、はあッ、ダンナよりデカいチンポ、ハメてイカせてくれ……ッ!」

「よく言えたね」

ご褒美、とピザ屋さんが微笑して、奥さんの腰をグイと掴み、グロテスクなほどに大きなソレがついに押し入りました。

「あ~~~ッ……!」

バチュンッ!と肉を打つ音が響いて、ピザ屋さんの腰が奥さんのお尻にねじ込まれるようにぶつかりました。
奥さんは途端に、背中を反りかえらせ、金属製の流しに爪跡の残りそうなほどに引っ掻いて身悶えしています。

「ひ、ぎィ、アアッ、あッ、あッ~~~……」

奥さんの小さな身体は、ピザ屋さんの大きな身体に押し出されるように、ゆさゆさと揺さぶられています。
開かれた口からだらしなく舌が垂れて、後ろから貫かれるたびにパタパタ涎が落ちました。

「ン、んうッ、ア、駄目、いく、もういくっ、」

「早過ぎるよ、モウ少し我慢。――ああ、けど、こちらもすぐ溶けそうだ……ッ」

奥さんのお尻をガッシリと掴んで、骨盤を締めるようにきつく抱くと、ピザ屋さんは抽挿を早めました。

「ぅアッ、あん、ア、あうッ、あッあッあッあッ、いく!いくいく、ああッ、もういく、いきたい、い
くッ!」

ズチュンバチュンと立っていた水音はだんだんと、バチュバチュバチュバチュと弾むような短い音に変わっていきました。
奥さんの黒髪はボサボサになって乱れて、汗ばんで額に絡みついています。
髪が一房、口へ入っていましたが、それどころではない必死さで奥さんも腰を振りたてました。
顔はいよいよ赤らんで、ぽたぽたと涎を垂らす舌も唇も、まるで熟した苺のようでした。

ピザ屋さんは太い眉をギュウと寄せ、瞼をかたく閉じ奥さんの肩に額をつけました。
薄っすら汗の浮いた肌はほんの少しの光沢を帯びていて、ピザ屋さんの額はヌルリと滑ってしまいました。

「ウ、ッいく、出すぞッ!」

「うゥッ、して、ナカッ……!アあっ、いい、チンポいいッ!あ、ア~~~……ッ!」

グッ、グッと身体全体を押し出すような感じで、最奥へ突き込むように腰を押し付けられ、奥さんは反りかえって悦びました。
酷いくらいに叩きこまれて、奥さんはもう息もつけません。声も、グウッと唇を噛み締めるようにして耐えています。

「あッ……!かはッ……!」

奥さんが小刻みにわなわなと震えると、その一拍あとにピザ屋さんはブルリと濡れた大型犬が身体を振るわせるようにして、動くのをやめました。


「ク、うッ、ウ……」

「あ……ッ、ハ……、ハ……」

何度かそれぞれにビクビクと震えた後、二人はピタリと身を寄せ合いながら、呼吸を整えようとして熱い息を吸ったり吐いたりしました。

ピザ屋さんが奥さんの背中の窪みに口づけると、奥さんは首だけ振り返って、ほんの少し目を細めました。
呆れながらも愛おしく思うのをやめられないというような、情の溢れる目が弧を描くのを、エルヴィンくんは見ました。
ピザ屋さんは遠慮なく圧し掛かって後ろから唇を吸うと、ハア、と息を吐き出しました。

「少し、制服のサイズが小さかったな」

「……でかい胸が入りきってねえな。……明日は?帰ってくるのか?」

会話の合間合間に小さくチュ、チュと唇を合わせながら、二人は日常に戻り始めました。

「まだ水曜日だろう。"ダンナ"が帰ってくるのは金曜日だ。仕事を終えたら、あちらから帰るよ」

「鶏肉の、モモのいいのを買って来てくれ。Aスーパーが特売日だ。……明日は?」

「そうだな明日は、電器屋にしよう。テレビの修理に来るんだ」

工具箱を調達しなければね。何の工具が好みかな。とピザ屋さんが言うと、奥さんは今度こそ本当の呆れ顔をして、工具に好きも嫌いもない、ばか。と言いました。

もう一度夫婦が唇を合わせると、ア。と奥さんが幽かな悲鳴を上げました。
奥さんのアソコからつう、と白いものが垂れ、床にこぼれて汗と雑じって濁りました。

電灯の消えている部屋に、卵色の床は磨き上げられ底光りするような艶をしているのでした。



*



コッソリとフェンスを伝い、下の階に戻ったエルヴィンくんは、エレベーターホールへ大股に歩いていました。
リヴァイくんはその後ろからヒョコヒョコと付いて来ました。


「ピザ屋さんは、青マントの仲間じゃないみたいだ。11階に行って、さっきの灰色の男を捜そう」

「なあ、待ってくれよ。エルヴィン、さっきの……」

リヴァイくんは急ぎ足に追いつくと、エルヴィンくんのポロシャツの裾を掴みました。
エルヴィンくんが振り返ると、リヴァイくんは顔を真赤にしています。耳まで、スッカリ茹で上がったような赤でした。

「大丈夫?顔がとても赤いよ。あそこは日がよく当たっていたから、のぼせたのかも知れない。少し休む?」

リヴァイくんはふるふると首を横に振ります。子どもっぽい仕草だと、エルヴィンくんは思いました。

「さっきの、あの、あんな……」

「あんな?」

「男二人で、台所で」

「ああ。セックス?」

リヴァイくんは、セッ、と言ったまま、二の句の継げないように、口をパクパクとさせました。
顔の赤らみは林檎に似て、首の辺りまでがそんな赤に染まってしまっています。
リヴァイくんの小さな手がポロシャツの裾をキュッと掴んで、ほんの少し震えているのを見て、エルヴィンくんは変な気持ちになりました。
それは子犬や子猫を見た時のようであり、好物のメロンを差し出された時のようでもあり、びりびりに破いてしまっていい紙が手元にあるようでもある、そんな妙な気持ちでした。

「何でそんな普通なんだよ。……見たことあんのか?」

「前の学校で、クラスの男子の家で上映会したんだ。ビデオ。男同士は初めて見たけど」

リヴァイは?なかったの?とエルヴィンくんが訊ねると、リヴァイくんは斜め下に視線を逸らしながら、それに答えました。

「……なくはない」

「ビデオ?」

「本。たまに公園の隅に落ちてる。汚ねえから手に取ったことはないけど、開けて落ちてやがるんだ」

「へえ。今度探しに行ってみようか」

「行かねえよ!」

リヴァイくんはパッと赤提灯のような顔色になって、珍しく大声をあげました。
エルヴィンくんは面白くなって、「リヴァイ、ねえ。」と距離をぐっと詰めて訊ねました。

「……したことある?」

「?何」

きょとんとしたリヴァイくんの耳へ、エルヴィンくんは内緒話を吹き込みました。
リヴァイの耳は小さくって、それに耳朶も薄いのだな、とエルヴィンくんは一瞬に観察しました。
話し終わると、リヴァイくんはエルヴィンくんをドンと押して、カアッと赤に赤を重ねた顔で、声を張り上げました。

「……そんなのしねえ!ばか!」

リヴァイくんは恥ずかしさと、軽口とに怒ってその勢いもよくエルヴィンくんを追い抜かしてゆきました。
すれ違うときの横顔に、汗が光っていたのをエルヴィンくんは見ました。

「リヴァイ!」

「来るな!」

「リヴァイ!待ってったら!上へ行こうよ、灰色の上着の男を捜さなきゃ。リヴァイ?」

エルヴィンくんは吃驚して、ずかずかと大股に歩いていくリヴァイくんを追いかけましたが、リヴァイくんは一度も振り向かずに、今度は走り出しました。

エルヴィンくんだって、足の遅いほうではありません。
柄が大きくはなくとも、クラスで5番以内に入るくらいには、足が速いのです。
けれどリヴァイくんは走るのが得意中の得意、学年で一番という好成績で、いつだってリレーはアンカーの花形。
陸上の大会に出ないかとひつこく誘われているのを、競技用の靴がないからと断っているくらいなのです。

そんなリヴァイくんでしたから、ぷいと走り出せばまるで風のよう、階段を下りて行った気配はありましたが、建物に詳しくないエルヴィンくんには、どこへ行ったか皆目検討がつきません。


ずらっと並んだ他人の家のドア、通路の角は真夏にも冷たく見えるコンクリートが尖っています。
みんみんみんみん、と離れたはずの蝉の音がやけに大きく聴こえました。
吹き抜けに公園から子どもたちの笑い声。

エルヴィンくんはぽつんと独りきり、佇んで周りを見渡すと心細さに胸がすうとしましたが、不安げに歩き始めました。



*


どこへ行っただろう、とエルヴィンくんは首を捻って思案しました。

一番可能性の高いのはお家だろうけれど、カーテンを引いてテーブルの下にうずくまるリヴァイくんを想像してみると、何だか違うなとエルヴィンくんには思われました。
リヴァイくんが高くて開けた場所が好きなのを、エルヴィンくんは知っていたからです。


転校して来た春、エルヴィンくんは同じクラスの男の子たち四五人に囲まれ、突き飛ばされて尻餅をつきました。
薄暗い体育倉庫の裏には桜の樹があって、エルヴィンくんは葉桜から落ちた毛虫を潰さないように身体を捻ってかばいました。

『痛いよ。何の用?口で言ってくれると有難いな』

折り目のついた紺の半ズボンのお尻についた砂をパンパンと叩いて落としながら、エルヴィンくんはそう言いました。
囲んだ男の子たちの一人が、むかっとした様子で拾った小石を投げました。
エルヴィンくんには当たらず、小石は近くの地面に落ちました。

『澄ましやがって。生意気なんだよ!都会っ子、マザコン!』

『マザコン?僕は母親がいないから、マザコンとは違う気がするけど』

エルヴィンくんが首を傾げると、男の子たちはニヤニヤといやな笑い方をしました。

『何だよお前んち、母さんいねえのかよ!やーい、リコン!ツレゴ!』

リコン!ツレゴ!カワイソー!男の子たちが大声で囃し立てます。
エルヴィンくんは言われたことに傷つきはしませんでしたが、どうしようかな、と少し困ってまた首を傾げました。
その時でした。

『うるせえな』

上から声がしました。
見上げると、体育倉庫のギザギザの青い屋根の上に、誰かいます。
少年です。
随分小さいので、エルヴィンくんは学年が下の子だと思ったのですが、名札の色で同学年だと知れました。
逆光に見えたのは黒髪の小さな頭と、白い膝小僧。
スニーカーも青色だ、と思った瞬間には、そこに少年はいませんでした。
体育倉庫の屋根から地面まで、少年は助走もつけずにポオンと飛ぶと、エルヴィンくんと男の子たちの間に着地しました。
膝を曲げて、三段跳びの選手のような、鮮やかな着地姿で。
少年は男の子たちに向き直りましたが、彼らに比べて、やっぱり随分小さく見えました。
クラスで幅を利かせていた彼らは背の順では後ろのほうのようでしたが、それにしたって、少年とは随分な差があります。
男の子たちの肩くらいまでの背でしたし、手足は細く、日焼けもしていません。
迫力に欠ける体格なのに、少年が現れた途端、男の子たちは怯んで後ずさりしたのです。
エルヴィンくんは驚きました。

『おい、てめえら。コイツが何だって?』

『い、いや。リヴァイくんには関係ないよ、こっちの話!』

『あ?』

『リヴァイくんッ、おれじゃねえよ、コイツが!転校生のこと、リコンって!マザコンって言ったんだ!』

『アッ、おい!』

仲間の裏切りにあった男の子は焦ったように、ウソウソ、そんなこと言ってない!と否定しています。

『くだらねえことで絡んでんじゃねえ。おれんちだって母さんだけだ。マザコンって言われりゃそうだろ』

『おれたち、別にリヴァイくんのこと言ったんじゃ、』

『通りすがりのおれが聞いて嫌な気持ちになることを、お前らはドウキュウセイに言うのか?』

おら、とっとと行けよ。お前らのクラス、次音楽だろ、と少年はシッシッと手で払うような仕草をして、男の子たちはそれで退散してしまいました。

男の子たちは暫く、こちらを振り返り振り返りしていましたが、校舎の中へ入っていくまで、少年はずっと睨みを効かせていてくれました。

『おい、お前もそろそろ移動しねえと、チャイム鳴るぞ』

『ア、ありがとう。君は?僕の名前はエ』

エルヴィンくんがそう話し始めた時、キンコンカンコンとチャイムが鳴り始めました。

『ほら、言ったろ。……じゃあな』

『あ、待って!』

少年は、まるで風のような速さで走って行ってしまいました。


次の日の休み時間に、エルヴィンくんは少年を見つけました。
登り棒に登り切って降りてこれる子は多くいましたが、棒から上の枠のようになっているところへ登れるのは、そうはいません。
彼がそこで足をぶらつかせているのを見かけたエルヴィンくんは、同じように登って、少年へ話し掛けました。

『やあ。ここ、いい?』

少年は振り向くと、珍客に目を瞠りました。

『転校生か。……見かけに寄らねえな、いいとこのお坊ちゃんだと思ってたぜ』

『エルヴィン・スミス。君は、リヴァイ・アッカーマンくんだね?』

『アッカーマンくんはやめろ、サブイボが立つ。リヴァイでいい』

『リヴァイ。こないだはありがとう。よく絡まれるんだ、転校生は目立つみたいでね』

『そうだろうな。お前は金髪だし、身なりがちょっと、おれらよりいいから。……気にしてるのか?』

『絡まれること?目立つこと?それとも、言われたことを?』

『……まあ、ぜんぶ』

『どれも気にしてないよ。転校ばかりなんだ、僕。慣れたし、どうってことない』

『そうか』

『そうさ。ありがとう、リヴァイ。君は優しいんだね』

エルヴィンくんがそう言って笑いかけると、リヴァイくんは居心地悪そうに目線を逸らし、俯いて足をぶらつかせました。

『……別に優しかねえよ。わあわあ言うやつらが嫌いなだけだ』

『そうなの?』

『そうだ』

『ここは眺めがいいね』

『だろ』

『うん。人の動くのがよく見える。……君は?高いところが好きで、ここにいるの?それとも人が来ないから?』

エルヴィンくんがそう訊ねると、リヴァイくんはもう一度、ぱちりと目を見開いて驚いた表情をしました。

『お前、遊ぶのに、理由がいるってのか?』

リヴァイくんがそう言ってあんぐり小さな口を開けるのを、エルヴィンくんは見つめました。

『知りたいだけさ』

君のことを、とはエルヴィンくんは口に出しませんでした。

『そうか。そうだな……』

リヴァイくんは暫くウウンと考え込むと、唐突に枠の上に立ち上がり、膝を曲げました。

『多分だけど』

瞬間、リヴァイくんの身体が空中へ投げ出されたと思うと、体重を感じさせないような動きで、下の砂場へ着地しました。
ツバメが滑空するときのような、そんな動きでした。

『……気持ちいいからじゃねえか』

身体を使うのが。とリヴァイくんは振り向いて言いました。
こちらを見上げるリヴァイくんの顔は、相変わらずの顰め面ではありましたが、清々としていました。

エルヴィンくんはそれが何だか羨ましくなって、自分もポオンと飛んで見せました。
一瞬、上も下もない、空中へ投げ出される感覚がしました。
着地し損ねて砂場へ転がってしまいましたが、リヴァイくんは手を差し出して、立つのを助けてくれました。

『……勇気のあるやつだ』

それからエルヴィンくんはリヴァイくんと仲よくなりました。
ジャングルジムやジャンピングタッチの遊具の上はもちろん、飼育小屋や体育倉庫の上にだって、リヴァイくんはスイスイと登って、エルヴィンくんに同じ景色を見せてくれました。

エルヴィンくんはお返しに、お薦めの本を貸してあげました。
リヴァイくんはエルヴィンくんよりはずっと遅いものの、少しずつ読んでは、面白かった、と返してくれます。

飛行機の飛ぶ仕組み、電車の路線図、昆虫の肢の形、外国のへんてこな挨拶、花の育て方。

『エルヴィンは何でも知ってるな。学校の授業より頭に入ってくる気がする』

『そうかな』

『お前の教えてくれるのは、世界のひみつって感じがする』

――お前がたのしそうに、喋るからかな。

エルヴィンくんは、そう言ったリヴァイくんを思い出しました。

図書室の中はシンとしずかで、誰もいませんでした。
エルヴィンくんが本を読むのに熱中しているうち、待ちくたびれたのでしょう、隣のリヴァイくんはうたた寝をしていました。
リヴァイくんの小さくてまるい頭が、エルヴィンくんの肩に触れていました。
重いような、軽いような、ふしぎな感じがしました。
ン、と身動ぎしたリヴァイくんの頬に、前髪の影が掛かっていました。
そこへ、影でなく、本物の髪がパサと落ちた瞬間、エルヴィンくんはドキリとしました。
思わず飛び上がりそうだったのをグッと堪えて、エルヴィンくんは放課後のチャイムが鳴るまで、リヴァイくんを見ていました。
いつまでもいつまでも、ずうっと見ていたいと思った自分に、エルヴィンくんは吃驚しました。

エルヴィンくんは心臓の音が早くなった理由が、吃驚したからか、それとも別の理由か、分かりませんでした。
やがて、チャイムが午後の校舎に鳴り響き、エルヴィンくんはリヴァイくんの肩を叩きました。


――家の中は暑いから、借りた本、外で読んでんだ。階段が涼しくて。

あの時のリヴァイくんの言葉を思い出して、エルヴィンくんは階段を登りました。
上と下のどちらにも、耳を澄ませてみましたが、やっぱり何も聴こえません。

「そうだ。隣の棟!」

エルヴィンくんはハッとそのことを思い出すと、勢いよく駆け上がりました。

最上階の13階まで上がろうとして、エルヴィンくんはそこで、足を止めました。

血の跡です。

踊り場に、ぽつんと一滴、あかるい赤色の血が垂れていました。
カルプスの包み紙の水玉ほどの小さな血溜まりでしたか、エルヴィンくんは恐ろしくなって、動かなくなった足を気づかずにギュウと抓っていました。
それでもどうにか階段を登りきると、向こうの棟へ続く渡り廊下がありました。


手すりの外は日光で眩いのに、渡り廊下の屋根の下は光をパックリと切り取ったように暗く、エルヴィンくんを一瞬竦ませます。

しかしエルヴィンくんは意を決して、ついに廊下へと足を踏み入れたのでした。



*


 

8号棟





渡り廊下を渡りきると、突き当たった壁に、8-13F と書いてありました。
恐らくここは8号棟なのだろう、とエルヴィンくんは見当をつけました。

「リヴァイ!いるの?リヴァイ!」

繋がっている階段の、手すりと手すりのあいだに顔を差し込み、エルヴィンくんは大声でそう呼びかけました。
何度か呼びかけて耳を澄ませましたが、返事する声も、何の音も聴こえません。
シンと静まった階段は、コンクリートの冷たさを返すばかりです。

エルヴィンくんは、並ぶドアと窓とを横目に、別の階段へ走りました。
するとエレベーターホールの脇に、上への階段を見つけました。
最上階のはずでしたから、この上はきっと屋上だとエルヴィンくんは思いました。
金属の網状の門のようになっていて、固く封鎖されています。
その先の埃が積もった階段に、また血が落ちているのをエルヴィンくんは見逃しませんでした。
門の上のほうには、大人一人がどうにか身体を捻じ込めそうな隙間があります。
エルヴィンくんはそこへよじ登り、門を越えました。

階段を登ると、8-RFの文字がありました。
埃っぽい中に、白い四角の光が見えます。
アルミの扉についた小さな窓の光でした。どうやらそこから、外に出られるようです。
そこから差し込む光だけが階段の唯一の光源で、照らされていないところへ足を踏み外したなら、真っ逆さまに下へ落ちてしまうのではないかとエルヴィンくんには思われました。
エルヴィンくんはそんなことはある筈が無いと愚かな考えを打ち消しながらも、慎重に、光っている床だけを踏んで階段を上がりました。

小窓の光るアルミの両開きの扉の横に、もう一つ、扉が見えます。
同じように小窓があるのですが、埃で曇って、ほとんど真暗に塗り潰されていました。
扉には『火気厳禁』『キケンにつき立入禁止』と、札がついています。
下のほうは錆なのか、赤茶色に汚れていて、ドアノブに触れるのすら躊躇するような、ゾッとするような感じがありました。

けれどそのドアノブの下の辺りから、部屋の中へ向かって、引きずったような血の跡を見つけ、エルヴィンくんは扉へ近づきました。
細い絵筆で刷いたくらいの小さいもので、ドアの下へ伸びています。

「……リヴァイ!いるの?!」

エルヴィンくんの大声は、薄暗い階段に響いて埃を舞い上がらせただけでした。
蝉の音も、いつの間にかありません。
シンとした静寂がべったりと張り付いているような感覚を、エルヴィンくんは気持ち悪いと感じました。

「リヴァイ!リヴァイ!そこにいるの?リヴァイ!」

エルヴィンくんはドアノブを回しましたが、ガチャガチャと音がするばかりで、どうにも開きません。
ノブの錆がざらざらと手を汚して、不安に鼓動を早めるエルヴィンくんを、より不快な気持ちにさせました。

「リヴァイ!」

今度は、ドンドンと扉を叩いてみました。
何も起こらないのに焦れて、エルヴィンくんはしゃがみました。
扉の下にほんの少しの隙間を見つけ、汚れた床へ身体を伸べるようにして、そこを覗きました。
頬に当たる砂がじゃりじゃりと当たるのが分かりましたが、痛みの無いエルヴィンくんには傷がついたのか分かりませんでした。

覗いた先は、真っ黒でした。
コールタールをぶちまけたような黒が、そこにありました。

驚いて一瞬首を引くと、隙間から入った光で、少し視界が明るくなった気がしました。

暗やみの中に、横たわるものがあります。
燃えるゴミ袋ふたつ分ほどの、もったりした重みのあるものが、そこへ横たわっています。

「……ア」

最初、図鑑で見た海豹のようだと思ったそれは、少年でした。
黒い髪の旋毛をこちらへ向けて、白い項と肩だけが蛍の光のように、ボウッと浮かび上がっています。

「リヴァイッ!」

エルヴィンくんは寝転がったまま、扉を叩きました。
叩いても蹴っても、それは何の反応もしません。

「リヴァイ!リヴァイ!リヴァイ!リヴァイッ!アアアーーーーーーッ!!」

エルヴィンくんは張り裂けんばかりに叫びました。
喉はカラカラに乾いていて、叫ぶうちに、血の味がしました。

「リヴァイッ!ああ、開け!開いてッ!開いてよッ!!」

立ち上がって、扉を叩きました。
ガン、ガンと音が反響します。
けれど、鉄の重い扉はびくともしませんでした。

「リヴァイ!今、人を呼んで来るから!……リヴァイ?」

もう一度、しゃがんで隙間から声を掛けました。
横たわっている姿を探しました。

ありません。
そこにはコールタールの暗やみが、真っ黒に部屋を塗り潰しているだけでした。

エルヴィンくんはゾッとして、背中がヒヤリと冷たくなったのが分かりました。
屈んで、何度確認しても、やっぱり何もありません。

誰も、いないのです。

エルヴィンくんは真青な顔で立ち上がると、そうだ、とにかく一度リヴァイの家に行こう、そして大人の人を呼びに行こう、と混乱しながらもそう考えつきました。

――リヴァイ!リヴァイ!無事でいて。からかった僕が悪かったから。

神様仏様、どうかリヴァイを、と生まれてはじめてそう祈ったとき、エルヴィンくんの肩がポン、と叩かれました。

「ヒッ!」

「エルヴィン?」

振り返ると、キョトンとした顔のリヴァイくんが立っていました。
左鼻にティッシュを詰めて、不審がって眉根を寄せています。

「……リヴァイ?」

「そりゃそうだろ」

何を当たり前な、という声音で、リヴァイくんが言いました。

「……リヴァイ!リヴァイ!良かった!」

「な、……ワッ!」

エルヴィンくんが突然飛び掛るようにしてリヴァイくんに抱きついたので、リヴァイくんは大きな声をあげました。
また真赤に頬を染めつつも、エルヴィンくんをどかそうとはしませんでした。


「どこに行ってたの?あちこち探したんだ」

「ああ、悪かった。飛び出したとこで鼻血が出ちまって、一旦家に帰ってた」

もう止まったみてえだな、とリヴァイくんが後ろを向くと、もうティッシュはしていませんでした。

「鼻血だって?」

ふふふ、とエルヴィンが笑ったのを、リヴァイくんは聞き逃さなかったようでした。
オイ、と脇を小突かれて、エルヴィンくんはやっと離れました。

「今、そこの部屋で変なの見た気がして。リヴァイかと思ったんだ」

「変なの?」

リヴァイくんはしゃがみ込んで、ドアの下から中を覗きこみました。
地面にリヴァイくんの白い膝小僧が当たるのを、エルヴィンくんは見つめました。

「……いる?」

「……いや?何も、ないけど。真暗だ」

リヴァイくんは立ち上がって、膝をパンパンと叩いて砂を払いました。
ほんの少し膝が赤くなっています。

「何がいたんだ?猫?」

「転がってる海豹みたいなの」

「おれがアザラシに似てるってのかよ」

「違うよ、けど、君かと思ったんだ。気が動転して」

ドウテンね、とリヴァイくんは呟くと、エルヴィンくんの手を引きました。

「屋上、入れるとこあるって言ったろ。こっち。行こうぜ」

リヴァイくんの指し示したほうは、両開きの大きな扉のほうでした。
小窓から光の差しているほうです。
エルヴィンくんは、今度は暗い床も、平気で踏むことができました。


リヴァイくんが取っ手を引くと、扉が開きました。

屋上です。

「ああ、……眩しい」

がらんと広く、苔の生えた緑っぽい床と、錆びたフェンスのほかは、ぜんぶ空でした。
太陽はいつの間にか西へ傾いて、空は水色と橙色と、不思議なむらさきに染まっていました。

屋上の真ん中まで来ると、二人はゆったりした気持ちで深呼吸しました。
あんなに暑かったのに、夕方にあたる海風はずいぶん涼しく感じます。

エルヴィンくんはごろりと寝転がると、リヴァイくんを手招きしました。

「気持ちいいよ」

「いいよ、おれは」

「いいじゃないか」

「……しょうがねえやつ」

リヴァイくんはふうと溜息をつくと、エルヴィンくんの横に寝転がりました。
見上げる空は、昼の顔から夜の顔へ、表情を変えようとしていました。
水色と、橙、薄い紫へ。
雲は黄金に輝いて、空とくっ付いている縁は、うつくしい銀色でした。
しばらくボンヤリとそのままでいると、リヴァイくんが口を開きました。

「空が、アサガオみたいだな。あの、色の変わるところ」

「僕もそう思ってた。……きれいだね」

リヴァイくんは、そうだな、と小さく呟いたあと、突然驚いたように目を瞠り、声を潜めてエルヴィンくんを呼びました。

「エルヴィン。なあ、……あそこ」

リヴァイくんは指を差すことなく、視線で方向を示しました。
屋上へ入ってきた扉の上は給水搭になっていて、白くて大きいバレーボールのようなプラントが乗っています。
その上に、人影がありました。

「……青マント?」

エルヴィンくんは驚嘆の声をひそかに上げ、目を凝らしました。


その男の人は怪人青マントと同じにマントを着ていましたが、色は濃い赤でした。
それに、随分小柄な気がしますし、髪も金ではなく、濡れたような黒です。
みどり色のマントも、ジャケットも、シャツも、びしょ濡れの真赤なのでした。
手には、大きな刃物のようなものが鈍く光っています。

「あいつが人さらい……?」

「待て、エルヴィン。あいつの脚」

立ち上がりかけたエルヴィンくんを、リヴァイくんが服の裾を掴んで制しました。
赤マントの細い脚は、途中から空気に雑じっているかのように、ぼんやりと消えていました。
空気に溶けているような感じで、よく見ればところどころ、空を透かしてまだらに青や橙、むらさきなのです。

「……幽霊?」

エルヴィンくんはさっきの部屋のことを思い出しました。

――本当にあれは、見間違いだったのだろうか?あいつに関係しているんじゃないだろうか?

けれどどうにも、赤マントを恐ろしくは思われませんでした。
あんなに血塗れで、どろどろに汚れて刃物だって持っているのに、赤マントから漂っているのは、寂しい風情なのです。
赤マントの彼は、きょろきょろと辺りを見回すと、向かいの棟を見据えました。
ボンヤリした顔で、小さな口をほんの少し開けて。
いとしいものの姿を視線の向こうに探すように。

赤マントはしばらく給水搭の上をさまようと、ゆらりと陽炎のように溶けて、消えてしまいました。
消えるほんの刹那、誰かを名を呟いた気がしました。
けれどそれはエルヴィンくんとリヴァイくんには聞き取れず、靄に似た残像を辺りへ捜し求めましたが、二度とは見つかりませんでした。


「……何だったんだ?」

「分からねえ。けど……寂しそうだったな。あいつ、独りぽっちなんだ」

可哀想にな、仲間か何かいねえのかな、とリヴァイくんが言ったので、エルヴィンくんは思いつきました。

「青マントに会わせてやろう。そしたらきっと寂しくない」

「どうやって?幽霊なんか、引っ張っていけるかよ。……ああ、そうだ」

リヴァイくんは、エルヴィンくんのすぐ近くへコロリと転がってきました。
リヴァイくんの剥きだしの膝が、エルヴィンくんの膝に当たっています。
エルヴィンくんは驚いて、心臓の音が早くなる感覚を覚えました。
リヴァイくんの小さな唇や、そっと覗く貝殻のような歯が、とっても近くにあるのです。
リヴァイくんは秘密のおしゃべりをするようなヒソヒソ声で、エルヴィンくんに話しかけました。

「エルヴィン、お前、宿題のアサガオ、枯らしてないか?」

「……いいや?」

「観察日記付けなきゃいけねえから、今はダメだな。夏休みが終わったら、アサガオ持って来いよ。あっちの棟と、こっちの棟とに、お前とおれのアサガオ、植えよう。そしたらきっと蔓が伸びて、あっちとこっちが繋がるだろ」

リヴァイくんはとてもいい思いつきをしたというふうに、弾んだ声でそう言いました。
エルヴィンくんは、そんなに上手くいくものかなあと思いましたが、言いませんでした。
リヴァイくんが本当に心の底からそう思い、願っているのが分かったからです。
エルヴィンくんはリヴァイくんが、ぶっきらぼうだけどとても優しいのだとよく知っていましたから、きっと本当にそうするだろうと思いました。
幽霊のために、アサガオで橋をかけてやるのだと。

「――分かった。きっと持ってくるよ」

「おう。約束だ」

リヴァイくんはそう言うと、左手の小指を差し出しました。
細くて頼りない、子どもの指です。
エルヴィンくんは思わず、自分の手を見ました。リヴァイくんと同じようなものだな、と思いました。
エルヴィンくんは今日の探検で、ほんの少し大人になったような気がしていましたから、身体だって、ほんの少し大きくなっているといいと思ったのです。

「ねえ、リヴァイ。薬指、噛んでよ」

エルヴィンくんがそう言うと、リヴァイくんは驚いて、思わず手を引っ込めました。

「は、何でだ」

「君のじゃないよ、僕の。……大人の人たちがしてたろ、約束するみたいに」

「……痛いだろ」

「僕は痛くない。それに、痛くてもいい。リヴァイに噛まれたら、もしかしたら痛く思えるかも知れない」

エルヴィンくんは、リヴァイくんに薬指を差し出しました。

「リヴァイに痛く、されたいんだ。痛いを知りたい」

リヴァイくんは、目の前に差し出された薬指を戸惑いがちに見つめると、本当にやるぞ、と小さな声で言いました。
歯は強いんだ。虫歯も出来たことねえ。噛んだら、きっと痛いぞ、と脅すように繰り返します。

「いい。してよ、リヴァイ」

リヴァイくんを見つめました。
透きとおる青い目は真摯に、リヴァイくんだけ見つめていました。
リヴァイくんの薄い灰色の瞳に、エルヴィンくんと、金色の空だけ映っています。
リヴァイくんには、僕がどう見えているだろう、とエルヴィンくんが考えたとき、リヴァイくんはやっと顎を引いて頷き、おずおずと口を開けました。

小さな口です。
唇は薄く、赤みのかかった桃色をしていて、サクランボのようでした。
舌は、てらてらと光って、時折ピクと震えています。
エルヴィンくんは開いた唇へ触れないように、そうっと指を差し入れました。
第二関節の半ばまで差し込むと、吐息が指に触れました。
生温かく、それは湿っています。

「……噛んで」

エルヴィンくんがもう一度、促すためにそう囁くと、リヴァイくんはその通りにしました。
かぷ、と一度軽く食まれ、エルヴィンくんは頷きました。

もっと。 と声に出さず、吐息だけで、エルヴィンくんは言いました。

リヴァイくんは一瞬、眉を顰めると、今度こそ顎に力を込めて噛み締めました。
指に触れる歯の感触に、エルヴィンくんの胸の中で、重くやわらかいものが揺れたような感じがしました。
臓腑のどこか、小鳥ほどの大きさのものが、震える感触でした。
けれど、エルヴィンくんにはそれが、痛みなのか、それとも別のものなのか、よく分かりません。
ギリ、と音がしそうなほどだったそれは、そろそろと抜き出した指を見れば、血が滲むほどではありませんでした。

「……痛かったか?」

「……どうかな。そうだったかも。変な感じがしたよ」

リヴァイくんはエルヴィンくんの手を取って、その跡を痛ましそうに眺めています。
リヴァイくんが痛みを知っているのを、エルヴィンくんはその時、心底から羨ましく感じました。
そしてこの感覚が、痛みであればいいと思いました。


「……そろそろ、帰らなくちゃ。このまま寝てしまいたいけど」

もっとずっと、一緒にいたいけど、とは言えませんでした。

――夏のあいだじゅう、こうしていたい。朝からラジオ体操でハンコをもらって、蝉とりをして、お昼ごはんをリヴァイのお家で食べたい。そうめんかな。カルプスを牛乳で割る飲み方も、リヴァイに教えてあげよう。棒アイスを扇風機の前で食べて、いっしょに水風呂に入って涼んで。それから、もっと団地を探検したい。まだ知らないところ、たくさんあるんだ。

エルヴィンくんはもう、明日遊ぶ約束をしたいと思いましたが、明日から暫くお父さんの田舎へ出掛けることを思い出しました。
また電話をしたらいいや、絵葉書を送ったっていい、驚くかもしれない。そう思って、開きかけた口を閉じました。

「じゃあ……、またね。楽しかった」

「……おう。ピロティまで、送る。……なあエルヴィン、約束な。アサガオ、夏休みのあいだに枯らしちまうんじゃねえぞ」

「もちろん。約束だ」

薬指に誓うよ、とエルヴィンくんは言いました。
リヴァイくんは、もう何も言わず、ただ頷きました。


空はもう、むらさきから紺へ変わりはじめていました。
月はまだ薄っすらと白く、その横に一番星が輝いているのが見えました。

海風は潮の香りを忘れて、夕餉のにおい。
団地の窓にはぽつぽつと灯りが点りはじめ、家族の帰る声がします。

廊下の電灯に張りついた蛾を怖がるかのように身を寄せ合って、二人はこっそり手を繋ぎました。
迷わないように。もう二度と、はぐれないように。


暮れる団地へ、風がまた、ビョウと吹いて立ち去ってゆきました。



*

父が亡くなった。 
そして、私は思い出した。


火葬場はN市の港から少し離れた場所にある。 
アサガオ団地のすぐ傍だった。
 
幼い頃に小学校から見えた長い煙突はかつての火葬場のものだった。 
短くなった煙突からは、もう遺体を焼く煙を見ることが出来ない。 

父の遺体が燃されているあいだ、私はあの日のことを思い出していた。 

目を瞑ると、茹だるような夏の日の、あの強い日射しと景色が鮮やかに蘇ってくる。 
青マントの噂をする子どもたち、人攫いと不倫疑惑とを同じように並べて他人事のように騒ぐ井戸端会議の主婦たち。 
薄いカルプス、夜のにおいのする母親、他人の家の中の秘め事。 
そして彼を。 

約束の後、父の転勤が急に決まり、夏休みの間に私はあの町を引っ越した。 
突然のことだったし、何より約束を守れない罪悪感から、私はリヴァイにそれを告げることが出来なかった。 
最後に会ったのが、あの団地での一日となった。 

夏休み育てたアサガオは、引っ越した先で枯れた。 
種だけ、そっと紙に包んで、机の奥へ仕舞った。 

引っ越した先でも、彼に電話を掛けたり、手紙を書いたりすることはなかった。 
意識して、あの日のことを忘れるように努めた。 
そしてそれは成功した。
今日まで、私は彼をすっかり忘れていられたのだから。 

新聞の紙面を賑わせた誘拐犯は、その後捕まったという話を聞かない。 
夏休みの前の月に見つかった死体は誘拐とは何ら関係の無い、老人の孤独死だった。 

父の転勤はその後数度続き、その内に私は大人になった。 
敬愛していた父と同じ、教職に就いた。 
それを、あの頃の私が望んでいたのか、それとももっと、別の夢があったのか、もう思い出せない。 
あの団地の子どもたちと同じ、親のコピーに育ったのだ。 
つまらない大人にはなったが、私は家族を持とうとは思わなかった。 
私は私のコピーを作り出す気にはならなかった。 

大人になった私は痛みを取り戻した。 
徐々に友人になっていったと言ったほうがいいのかも知れないが、とにかく今では期末テストの採点後に決まってやって来る頭痛に悩まされている。骨折も病気も経験した。 
けれど今、リヴァイに噛まれたあの甘やかな痛み以外を、到底痛みと呼ぶことができない。 

小さな歯だった。貝殻のような白さが、私の薬指に食い込んで、ぎりりと鳴った。 
あの時の胸の痛み以外を、どうして痛みと呼べるだろう。 


アサガオ団地は、埋立地という地盤の弱さと建物の老朽化から耐震性の問題を指摘され、また、住民の大半の勤め先であった製鉄所と造船所が潰れたために、今ではゴーストタウンと化しているらしい。 

――リヴァイはもう、あそこに住んでいないかも知れない。 
数十年が経っていた。どこか知らない町で大人になった、リヴァイを想像しようとした。 
けれどそれは上手くいかず、記憶の中の誰かになった。 
年上の男を膝に抱いて微笑む中学生。布団の中の会社員。夫と戯れる人妻。赤マントの男の哀しげな横顔に。 

それに、リヴァイは私が来なかったことに怒って、アサガオを植えなかったかも知れない。 
植えていたとしても、既に枯れているだろう。 
海風のビョウビョウと吹き付ける中で、アサガオは何を想って枯れていっただろう。 

すべてはもう、帰ってこない。 
私はあの日、リヴァイを永遠に失ったのだ。 
真夏の団地。太陽にいじめられて。 


――けれど、私はそこへ行こう。 

あの巨大な灰色の墓標へ。 
アサガオの種と、君に貸したかった、沢山の本を持って。 


きっと今もそこで、大人たちは変わらず睦みあい、少年たちがふざけあって、何かを探しているのだろうから。 

 

高密度住宅
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