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或るモブからの手紙


奥様、



 突然このように不躾な手紙を差し上げますことを、どうか御赦しください。

私はここに、私自身の恥ずかしい犯罪を洗い浚い告白し、そして奥様に、一生の御願いを致したく、筆を取らせて頂いた次第でございます。
どうか、最後までお読みになってくださいますよう。


 私はしがない町の化粧品売りでございます。
商いはそう大きくはありませんでしたし、私は接客が得意ではありません。
たいがいは雇い人にお客様の対応を任せ切りにして、在庫を整理するのが専らの仕事でありました。

 おふたりが初めてご来店されたときも、私は店の片隅で、化粧品の瓶の埃落としをしておりました。
おふたりは本当に、お似合いのご夫婦でいらっしゃいました。一見しますと折り合いのよろしい、普通のご夫婦に見えました。
 しかし、旦那様が奥様へいとおしむような視線を投げかけますと、奥様の身に纏われています、洗濯石鹸や樟脳などの清潔な香りの中へ、桃が熟れて汁を滴らせ向日葵が焦げ落ちるような情の薫りがフッと香り立つことに私は気づいたのです。
そして私は理解しました。
奥様は、手に手を取り合うご夫婦になられて尚、旦那さまに片恋をされておいでなのだと。


 私はひどく鼻の利く男でした。

三四メートル離れた場所にいる相手でも、鼻を凝らせば、どのようなにおいかを嗅ぎ分けることが出来ます。
夏の電車に人が詰め込まれているときなど、鼻を捥いで捨ててしまいたいと思うことすらありました。
己の我が侭な嗅覚の許すものを集めた化粧品店を営むようになってやっと、私の平穏の日々は訪れたのです。

 そこで嗅いだおふたりの香りは、私の理想でございました。
旦那様の、平原を吹き渡るみどりの風をフウと男の形の袋へ吹き込んで人にされましたような自由で気高いあの香り。
奥様の、花弁へ集った朝露のしずくたちを一滴も零すまいとする強い花の咲き姿に似た匂い、慈愛深い母の胸元に似た懐かしくやさしいあの香り。
それが合わさって、あたらしい朝の匂いと芳醇な夜の薫りとがするのです。
それは不思議な香りでした。
幾度も、いつまでも嗅いでいたいと思う香りでした。

それから勝手ながら私は、おふたりをソッと、見守らせていただき、そして香りを追うようになったのです。
それは豊かで、素晴らしいひそかな私だけの時間でございました。


 けれど、しあわせはいつまでも続きませんでした。
幸福とはそういう性質のものなのでしょう。奥様も、きっとそう思われたことと思います。
旦那様がお亡くなりになってはや数年、私はおふたり以上の香りの交響に出会えておりません。
奥様が、あの秘め事をお始めになり、様々な男たちと肌を重ねても、奥様の最愛の旦那様以上に、奥様の薫りを引き出し、引き立てる匂いを持つ者はおりませんでした。
視線をひたと当てられただけで、血を湧き立たせ肌を焦がすような熱を、奥様はお感じになっていないからです。
奥様という香へ火をつけ薫らせるのは、やはり旦那様以外にはいらっしゃらないのでした。

 私はずっと、奥様に憧れておりました。
町中で何度も何度もすれ違ったことを、奥様はお気づきになったでしょうか。
ほんの少し肩の触れるくらいの距離を、私は人ごみに紛れて装い、貴方の匂いを嗅ぎました。
奥様の身に纏う、誰より蠱惑的で、淫靡でいて、愚かなほど一途で清らかな匂いを吸い込んでしまうと、私はくらくらとして、もうどうしようもなくなってしまうのです。

清潔に切り揃えた黒髪のうなじは。
日射しにジットリと湿る背中の、脇の、太腿の匂いはどうでしょうか。
私は香水を調香すらして、貴方のその香りに思いを馳せました。
そしてついに、恥ずかしい、あの罪を犯すことになったのです。


 私は愚かでした。

あまりに、愚かで、幼稚でした。
どうぞ笑って下さい。そして軽蔑して下さいませ。
私は御宅へソウッと忍び込み、奥様の下着を盗んだのです。
奥様はその日、どんなにか気味の悪い思いをされたでしょう。
 ミントブルーの、水色と薄みどりの中ほどの色の下着でした。シャラシャラとした生地はやわらかく、光沢を帯びていて、奥様の肌を連想させました。
控えめなフリル、前についた小さなリボン。腰に当たる部分は透けており、これを身に付けた奥様は、どんなにかいやらしいことでしょう。
庭の洗濯物干しから、衝動的にそのパンティーを取り去ると私は、家へ逃げ帰りました。
 私は冷や汗を掻き、手は震え、歯の根も嚙み合わぬ有様でした。初めて女性の裸の写真を見たときにさえ、そんなにも興奮したことはありませんでした。
私は生地の肌触りをしばらく指と頬とで楽しみました。

 そして、ついに、醜い鼻をその、パンティーのクロッチ部分へ当てたのです!
――何という薫り。私はあれを喩える語彙を持ちません。
奥様のふだんの香りを強く、いえ濃く、純度をあげたような、あの薫り!
私は勿論、勃起していました。石膏像のような硬さのソレを、気づけば私は夢中で扱いておりました。そのときの射精の心地好さと言いましたら――。


 奥様、ここまでをお読みになって、ずいぶんとご気分を悪くされていることと思います。
ここまで露悪的に、仔細を書かずともとお思いになることでしょう。

けれど私は、ここにこの恥ずべき犯罪の一切を告白し、貴方へ懺悔したい。
そうすることでやっと、憐れな貴方様のしもべが、見っとも無く地に伏せ、手を突いて、貴方へ懇願することが出来るのです。


 私は、数にして二十枚の下着を盗みました。
ミントブルーのレース地に始まり、黒のティーバック、黒の総レース(深穿き)、薄桃色の紐パン、ブランデーのハイレグ、白の綿パン……何を盗んだかについては、勿論被害者の奥様がよくご存知でしょう。
私はそれらを盗み、貴方の匂いを好きなだけ嗅ぎました。
下着を鼻に当て、肺の奥にまで深く香りを吸い込むと、私はよりいっそう奥様を想いました。

 ――貴方を抱きすくめ、その肌を熱くしたい。
私の唇で、舌で、手で、貴方の体温を上げたときに、どんな薫りが立つのかを、私は知りたく思いました。
貴方の匂いを直に嗅ぎながら、貴方の中へ欲望を注ぎ込んだなら……貴方の薫りに混ざることが出来ましたら、どんなにか幸福でありましょう。
私の夢想はいつか具体的な妄想になり、やがて、はっきりとした熱量を持って、私の心を掻き乱し始めました。
貴方を抱きたい。
貴方をこれまで抱いてきた男たちに、私は嫉妬いたしました。
貴方の肌を旅して、あられもない声を上げさせ、貴方の中を知るすべての男たちに。


 ここまでお読みになって、私がどこの誰なのか、私の願いの熱がどのようなものなのかを、知って頂けたことと思います。
奥様は、先日私の店を訪ね、私へ一つの頼み事をされました。奥様の手には、旦那様の香水瓶がありました。
旦那様の生前、当店でおふたりがお買い上げになった品です。奥様は、それを胸に抱いて、こう仰いました。
『亡くなった主人の形見だが、これと同じものはまだあるか?』と。そして私は、香水瓶をお預かりしました。

 奥様、先日の問いにお答えいたします。
香水の在庫は、もう無いのです。あれは、あの香水は、旦那様自身の香りを引き立てるために、私の調えた香水です。
世界にタッタひとつの、私が旦那様と奥様だけにお造りしたものなのです。
成分表につきましては勿論当方にございます。
ええ、私の記憶の中のみに。


 奥様。ああ、奥様。
 どうか、私の一生の願いをお聞き入れ下さい。タッタ、タッタ一度きりでいいのです。
私は地味で冴えない、見栄えのしない男です。気に入って頂けるとは思いません。地毛の褐色は、せめて金髪に染めました。奥様。

 ――私を一日、貴方の旦那様にして下さいませんか。
一度きり、あの御宅へ迎え入れ、夫として妻の貴方を抱かせて頂ければ良いのです。香水のお代は、それで結構です。
ちいさな町の化粧売りが、それ以上の何を望みましょう?


 ――明後日は旦那様の月命日です。
午後には、お坊様が読経にいらっしゃるでしょう。その前、貴方が旦那様を重ねて男に抱かれる前に、貴方にお会いしたい。

 午前十一時に、御宅へ参ります。上背だけはある私です。コートを着て、そこへ、あの香水をつけましょう。
黙って呼び鈴を押します。奥様は慣れた家の中です、どうか目隠しをお付けになって、私を、旦那様を迎え入れて下さい。
 私は旦那様の香りをつけたまま、黙っていますから。ただ一言、「おかえり。」と仰って下さい。

 そうしましたら、貴方を、妻を抱き締める幸福を、私には足りずとも貴方には充分かも知れない旦那様の香りと、奥様のあの香りの混ざる幸福を、私に下さいませ。
奥様。どうか、どうか恋に狂った愚かな男を憐れと思し召しなら、このタッタ一つのお願いを、聞き入れては頂けませんでしょうか。


 もしご了承頂けましたのなら、明後日の朝。玄関先へ咲いた、花の落ちそうな桔梗を、摘まずそのままにしてやって下さい。
後日の朝に、咲いたままの桔梗を見ることが出来ましたなら、香水瓶はきっとお届けに参ります。
そのあとに、卑怯でつまらない男と、どうぞ存分に笑ってやって下さいませ。



 奥様、お慕いしております。どうか、一度きり、思い出を下さいませ。





                             桔梗を待ち望む、恋の奴隷より  愛を込めて



 

Perfume
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