星空
星が瞬いていた。
湖には幾億もの星のひかりが細かに映り込んで、夜空とはまた違う不思議に深い紺色に眠っていた。
ほとりには、風が吹くたびやわらかな波が立っている。
その近くへ椅子を置いて、リヴァイとエルヴィンは空と湖とを眺めていた。
どちらかがほんの少し傾けばすぐに肩か腕が触れるほど、とても近くに隣り合っている。
足元に置いた、油をたっぷりと溜めた角灯の火はちらちらと心地好く揺れている。
眠くなりそうに、ゆったりとした気配しか、ふたりのそばにはなかった。
「・・・・・・昔、巨大樹の枝の上で仮眠を取ったことがあったな」
エルヴィンは、ふと思い出したようにぽつり、ぽつりと話し出した。
リヴァイの用意した紅茶は、淹れたばかりでまだかなり熱かったから、冷まそうともせずに冷めるのを待つような、そんな顔だった。
「身体は疲れ切っているのに、眠れないというのはとても辛いなと思ったよ」
「……抜かせ。あっと言う間に寝ついて、高鼾かいてたのはどこのどいつだ。
ワイヤーを張ってるとはいえ、自由過ぎる寝相にひやひやしたのは俺だぞ」
わりに神経が図太いんだ、お前は。とリヴァイは苦々しげに吐き捨て、手元の紅茶に息を吹きかけた。
「リヴァイは寝ていたのか、あれは。見張っている間、ずっと眉毛が寄っていた。魘されているような顔だったぞ」
「……見るな、そんなもん。俺の眠りの浅いのは通常営業だ。どこでも眠れるが、安眠はしない」
どうやらやっと啜ることが出来る程度には温度の下がった紅茶に、やっと口をつける。
今日の遠出に少し奮発をしたから、香りはかなり良かった。
「今もか?」
後ろから伸ばされた腕に反射で瞼を開きかけたが、不安に思うべき相手ではないと緩やかな気持ちを取り戻すように心がけた。
エルヴィンに触れられるのは慣れない。
今でさえ、必要以上に近い距離に小さく緊張していた。
エルヴィンの手が肩に回り、引き寄せられる。
「お前はいつも怖がってるな。」
ふ、と笑う吐息がリヴァイの旋毛に当たって、温かくもこそばゆい。
当たったやわらかい感触に、そこへ口づけられたのだと気づいて頬が熱くなった。
「何が怖い?俺はここにいるだろう。ずっと傍にいるよ。お前の傍に」
ゆっくりと髪を梳かれ、聞き分けのない子どもをあやすように、やさしい声が耳へと注がれる。
低く、深く落ち着く声だった。
いつまでも聞いていたいと、リヴァイは思った。
「……どこへも行かずにか?」
「ああ。どこへも行かない。」
「他のものを見ずに?」
「ああ。何も見ない。お前だけだ。」
「何も知らないまま」
「お前と、ずっとこうしていよう。幾らでも、思い出話を。リヴァイ」
愚かな言葉だった。
甘い声音で囁くエルヴィンの瞳には、確かに自分しか写っていない。
雨として降れば、埋もれて溺れるかというほどに瞬く星の数の、一粒もその瞳には無かった。
ただ、見返すリヴァイ自身の姿だけがあった。
いつの間にか風もなく、水面にはただ月だけがあった。
波はふたりを追いかけることをしなくなっていた。
「……しずかだな。まるで、」
この世にふたりのほかは、誰もいなくなったみたいだ。
リヴァイはその言葉を飲み込んだ。エルヴィンの肩に体重を預けて、ふかく息を吐いた。
そうして、何者にか分からぬままに祈った。
この夢が、終わってしまわないように、と。
「……リヴァイ。リヴァイ。起きられるか?もう時間だ、行こう。」
肩を叩かれ、リヴァイの意識がはっきりとしてくる。
ぼやけていた視界は徐々にひらけ、そこが会議室であったことを思い出した。
少し仮眠を取っていたリヴァイを呼びに来たエルヴィンは、リヴァイに短く声を掛けるともう目を向けず、机上の書類を集めている。
「……ああ。」
「先に行っている。遅れるなよ」
それだけ言うと、エルヴィンは部屋を出て行った。
あっという間のことだった。
――あの男が、未来に目を向けず、好奇心に身を躍らせることもせず、命を賭けることもせず。
俺の傍にいるだけ、俺だけ見ているなど。
都合の良い、自分勝手な夢だった。
ただ、その夢はまだリヴァイの胸をじんと痺れさせ、その甘くほろ苦い罪悪感は口の中に残っていた。
エルヴィンの手の置かれた肩に、手のひらを重ねてみた。
温かみなど、欠片も残っていないのに、いつまでもそこへエルヴィンを感じていたかった。
しかし、リヴァイは己の果たすべき役割を、分かり過ぎるほどに分かり切っていた。
これまで散った盟友たちのために。エルヴィンの目指すもののために。
一度、肩をぐっと握り締めると、それはすっかり自分の手の感触に変わってしまった。
しかし望みを断ち切るように強く目を閉じると、まだ瞼の裏にはあの紺碧の星空が瞬いていた。
何度でも、何度でも、目を瞑るたび、それは瞬くのだった。