桜の恋
花見に行かないか、と誘われたのは昼のことだった。
「花見?」
「そう、花見。」
目の前のエルヴィン・スミスという歴史教師はそう言いながら、スクール・ランチの弁当容器の蓋を閉めた。
薬缶を傾け茶を注ぐと、湯気の立っていない湯呑みをふうふう言いながら飲んでいる。猫舌なのだ。
この教師は、昼食を生徒と一緒にすることはあまり無いらしい。
かといって職員室でも姿を見ない。
大概は自分の城と決め込んでいる社会科室の隣、何のか分からない資料に溢れた部屋で一人、食事をとっている。
この高校の清掃員であるところの俺は、この資料室を憎きカビの温床となり得る場所と踏んで、他の部屋より多く顔を出すようにしていた。最近は、もう少し別の事情でこの部屋に通ってはいるのだが。
市から委託された清掃会社から派遣された一社員の俺が、先生方を同僚と呼んでいいのか分からないが、とにかく職場の一員であるエルヴィン・スミス先生とこうして茶を飲んでいるのには特にこれといった理由はない。
昼飯を用務員室で食い終わると、用務員のおっちゃんが「持ってってやりんさい」と俺に薬缶を渡すからだ。(ちなみに社会科資料室は隣だ。)
それくらいのことはお安い御用ではあったし、先ほども語ったが社会科資料室は放っておくとすぐにカビが生える(これについては、エルヴィン・スミスの体質なのでは無いかと疑ったほどだ)ので、見回ることはやぶさかではない。
なのでこうして茶をいっしょにしているというわけだ。それ以外、それ以上の理由は、今は、ないはずだ。
「毎年春になると、教員と、卒業生なんかが集まって花見をするんだ。
君が入ったのは夏だったな。今年もやるから、君もどうかと思って」
「ハ……悪いが、俺はそういう集まりに向いていないと思うんだが」
「どうして」
「本人に訊くな。だいたい分かるだろうが」
「花見に向いているも向いていないも無いだろう。よし、決まりだな。今日の十九時に、川の土手で。グラウンドの裏だし、人も多いから分かるだろう」
「オイ、俺は行くとは一言も」
やあ良かった良かったと奴はもうニコニコ顔で、弁当箱を掴むととっとと部屋の外へ出た。
ずいぶん横暴な決定だ。これは拒否してもいいだろうと思っていたが、終業後、奴は律儀に迎えにやってきた。用務員室で着替えを終えた俺をバイク置き場で待っていたのはレジャーシートを小脇に抱えたエルヴィン・スミスだった。
服は着替えることなく、いつものシャツとベスト姿だった。レジャーシートと一緒に挟まれている丸められたジャケットは、そのままでは皺が付いてしまうのではと気になった。
貸せ、とそれを取り上げ、パンと払って手に抱える。するとエルヴィンは頷いてよし行こうと歩き出した。それで俺は諦めて、こいつと花見に行くことにしたのだった。
土手はすでに人で溢れていた。
定番の青を基調に、さまざまな色と大きさのレジャーシートが薄暗闇にも鮮やかだ。
そこへ土手の上に植わっている桜の花がワアッと咲ききっていて、風が吹くたびはらはら散った。
宴会の中心はどこだか分からぬまま、エルヴィンに連れられて端のほうを陣取る。エルヴィンの持ってきたレジャーシートはどこで買ったものか、妙な地図模様だった。その後もどんどん人はやってきて、立って外へ出るのも難しいほどになった。
そこへ、ハンジとミケが何種類かのつまみと、ビール瓶を何本か抱えて持ってきて、それなりの宴会になった。
つなぎ目のわからなくなったレジャーシートの陣地は狭く、時たま、エルヴィンの手が当たる。そのたびにビールを吹きそうになったり、焼き鳥の串で口の中を怪我しそうになったりするなどした。
酔った用務員のジジイの何度目かの苦労話を聞いていたら、いつの間にか奴は隣から消えていた。周りをそれとなく見回すと、少し離れた場所にその姿はあった。
年配の男性教諭と、若い女性教諭、卒業生だろうか、見知らぬ顔の男女に囲まれている。騒ぎ声に紛れて、話す声までは聞こえない。ただ、楽しそうに酒を飲んでいる。時折、ピーナツのようなものを摘んで口に含むと、はにかんだように笑う。
そんな顔をすることもあるのだな、と俺は思った。酒を嗜むということすら知らなかったし、思えばこの一年ほどで、知ったのは片付け掃除が苦手だということと、猫舌ということくらいだ。そもそもいっしょに過ごすのは薬缶を持ってきて、奴が茶を飲む間くらいのものだ。奴のどこかに、昔からいっしょにいたような不思議な親しさを感じていた俺は、少し吃驚して、動揺した。仲間外れのような、置いてけぼりのような、そんなさびしいような妙な気持ちになり、それで、ああ、俺はエルヴィン・スミスが好きなのだと気がついた。気がついた途端、涙が出た。
吃驚した。吃驚したなんてもんじゃなかった。泣くなんて、それこそどれぐらいぶりだっただろうか。(子どもの頃は人並みに泣いていただろうか?記憶がない。)
幸いにも隣にいた用務員のジジイは隣の音楽教師と将棋の話で盛り上がっていたし、周囲の人間は酒や肴や桜やおしゃべりに夢中で、誰も気づかない。ハンジやミケも、いつの間にかいなくなっている。
ぽろっとこぼれた涙はレジャーシートに落ち、俺はそれを誰にも見られないようにすぐ拭った。その時だった。
「抜けよう」
エルヴィンだった。エルヴィンが、いつの間にか側に来て、腕を取って俺を立たせた。そしてどうやったものか、スイスイと人のあいだを抜け、レジャーシートの海から俺を掬いあげた。
エルヴィンは怒ったようにズンズン歩いていく。腕は取られたままだ。桜は散っていき、俺たちに降りかかる。花吹雪に一瞬、世界が見えなくなる。前を歩くエルヴィンだけが見える。
「エルヴィン」
俺は今日気がついたことを伝えたかった。頬にかかった花びらの柔らかさに勇気をもらい、これから昼食をいっしょにいいだろうかと、それだけ言おうと思った。ああ、せめてそれだけ、それだけ言えたらどんなにいいだろう。
春だった。
春が教えた恋だった。