top of page

深夜食堂





その店を見つけたのは偶然だった。

たまたま帰宅が遅くなった日、いつもとは違う道を選んだのだ。

すこし小さめの提灯。
のれんはキリッとした藍色で、店名は無い。
裏路地なのにその道は散らかった様子はなく、
特にその店の前は綺麗に掃き清められているのが夜目にも分かった。
こういうお店はきっと美味いだろうと思い、エイヤと飛び込んでみた。

「……らっしゃい。」

のれんをくぐり、戸を引くと、低い声が迎えてくれた。
声の主のまわりをぐるりと囲うようにカウンターがある。
カウンターは渋い色だがよく磨かれている。
短い背凭れの椅子に腰掛け、私はメニューらしきものを探した。

「作れるものならだいたい作る。」

低音がまた降りてきて、私は彼を見た。
のれんと同じ藍色の着物に、白い割烹着。
着物は女性もののようだったが、声や、ぷっくりとした喉仏は男性であることを示していた。

「とりあえず、ビールを。」

「生か、瓶か。」

「たまには瓶もいいね。じゃあ、瓶で」

「あいよ。」

ほどなくして、キンキンに冷えたコップと瓶ビールが運ばれてきた。
お通しはキュウリとタコの酢の物だ。
程よい酸っぱさに、蒸し暑い夏の夜の疲れが和らぐ。

そこへ、ガラガラッと景気よく戸を開け、客がやってきた。

「おーす、リヴァイ!暑いね、もう汗だくだよ!」

「よう、クソメガネ。戸は静かに開け閉めしろといつも言ってるだろうが」

「はいはい。ねえ、いつもの!」

「静かにして待ってろ。」

はあい、とその客が答えると、手早く店主が調理を始める。
赤ウインナーを取り出し、包丁を入れる。
ガス台にフライパンを掛けると、ジュワ、という音と共にいい匂いが漂い始めた。

「お待ち。」

トン、と客の前に置かれたのは、タコさんウインナーだった。

「残業後にはコレじゃなきゃね!」

客は美味そうにタコさんウインナーを頬張ると、白飯をはふはふと掻き込んだ。
それが実に美味そうで、つい腹の虫が鳴った。

「すまない、私にも同じものをひとつ。」

「……あいよ。」

気だるそうな返事にすこし心配になるが、店主の手つきは素早い。
あっという間に出来上がった皿が私の前に置かれる。
ホカホカと湯気を立てるウインナーのタコたちは可愛らしく、そして美味そうだった。

「飯は?いるか」

「ああ、頼む。ありがとう」

赤く、ゆかいに踊っているタコさんに箸をつける。
頬張ると、懐かしい味にホッとした。

「懐かしい味だな。」

「昔は、弁当と言えばコレだった。アンタもか?」

「ああ。私の家は父子家庭で、よく父がコレを作ってくれたよ。
友達の家のタコさんウインナーが羨ましくて、珍しく私がねだったんだ。
最初はガタガタで、足も揃っていなかったけれど、美味かった気がするな」

「そうか。……いい親父さんだな。」

不機嫌そうな低音が、すこし和らいだように聞こえたのは気のせいだっただろうか。

「俺の食堂が何て名かって?客どもは勝手に、深夜食堂、って呼んでるよ。」

腕を組む店主の手の甲が血管を透かすほどに白くて、私はすこしドギマギした。
よく見れば、彼の顔は人形のように整っていたし、憂鬱そうな目にかかる黒髪はサラリとして美しかった。
日本酒を頼めば、徳利を持つ手がどうにも艶めかしい。
深夜の魔法だろうか?
いや、酔っている。これは酔っているぞと自覚した時には既に遅く、私は前後不覚に陥っていた--。




「はっ。」

かかっていた掛け布団を撥ね退け、飛び起きる。
知らない天井、知らない布団だ。
畳の上には昨晩見た、あの割烹着と藍色の着物とが脱ぎ散らされている。

「まさか。」

窓が開いている。
外を見る限り、どうやらここはあの食堂の二階らしい。
チュンチュンと雀の声がする。

「おう、起きたか。」

低音が聞こえ、私はそんなまさか、と思いながら、ゆっくりと振り向こうとする。
その私の肩から胸に、するりと腕が巻きつく。
青白い手の甲。艶めかしい指から手首の線。

「随分なお寝坊さんだ……エルヴィン?」

慕わしげな声が淫靡で、まるで朝だと思えない。
今はそう、深夜だ。深夜の魔法にかかったままなのだ。
私はそう自分に言い訳すると、その艶めかしい手を取った。



















 

椅子とテーブル
bottom of page