色の名前
ああ、お前を拾って暫く経つな。
随分潮臭さも抜けたか。
驚いたぜ、あの日は。
嵐の次の日だったな。
お前は浜辺に土左衛門みたいに転がってた。
実際死体だと思ったから、杖で突ついて引っ繰り返したんだ。
――それは悪かった。
でももうすっかり跡も消えただろう?
他の怪我もすっかり良くなった。
相変わらず頓珍漢な事を話す事もあるし、お前自身の事も思い出せないままみたいだがな。
まあ手足がちゃんとくっ付いてて、水が飲めて物が食える。もう何処へでも行けるんだ。
俺のお蔭だな。そうだろ?
この浜辺の家から、南へ下れば村がある。
壁がなくなってから出来た新しい村だ。
割と人も住んで賑わってる。
そこに小さい紅茶屋があるから、お前は家族が見つかったらそこへ報せてくれたらいい。
ああ、俺はそこで商ってる茶の類と、ドロップが好物だ。紅茶なら何でもいい。ドロップは、薄荷味のは苦手だ。白色だって話だ。
俺のお蔭だと心底から思って、礼をしたいなら白いの以外のをそこに預けとけ。
―ああ。そうなんだ。
俺は色が分からねえ。
生まれつきそういうのが分からねえ奴は居るが、俺はそうじゃない。
分からなくなったんだ。
あの、壁が壊される事になった最後の戦争から。
御察しの通り俺は兵士だった。
多くの仲間が死んでいったよ。
俺なんかに付いてきてくれた、健気で優秀な部下たちを何人だって死なせた。
折角あいつらが作ってくれた、壁の無いクソみたいに平和な世界に、
クソみたいに役に立たねえ俺みたいなのが生き残っちまった。
それは本当、世界にとって残念な事だ。
――今日は良く喋るって?
そりゃあ、お前は俺みたいな陰気なのと、俺はお前みたいな世話の掛かるのと、お互いやっとおさらばできる祝いの席じゃねえか。
最後ぐらい、俺だって喋る。
それでも、喋り過ぎだな。
何でだろうな。
やっぱり、声が似てるからか。
俺に色の名前を教えた奇特な奴が居たんだ。
群青、紺碧、縹、瑠璃、露草、杜若。
酒の肴にか手慰みにか、青い色ばっかりな。
そうだ、それで色の話だが。
俺の話はどうもとっ散らかってていけねえ。
通訳が必要だってよく言われたものだ。
俺は折角生き残って、海の傍に住んではいるが、生憎全部白黒なんだ。
お前から見て、あの海はどう見える?
色の名前だ。
―――おい、お前は随分詩人だな。
そう言う稼業だったのかも知れねえな。
いや、稼業なら、こんなに美しくは紡げない。
きっと只の夢見がちな野郎だったんだろう。
だが、ああそうか。空より模様が複雑に出来てやがるから、色も一つじゃ喩えようが無いんだな。
目の色が似てるんだそうだ。
俺には青い色ばかり教えた酔狂な奴の、目が。
俺は、そいつの目は最初、暗いとこから出て初めて見た広い空の色みてえだと思ってたんだが。
確かに、一つの色じゃなかったように思う。見る角度の違いか?持ち主の感情の揺れでか?それとも、映すもので違ってくるのか・・・
澄んだ水の色だったり、鳥が渡って来て、また帰って行く空の色だったり、巨人の間を飛び回ると吹く風の色だと俺は思ってた。
ああ、お前みたいに上手く説明出来ないな。
そいつは禁書が大好きでな。
肩書きは大層御立派な癖に、見つかったら取っ捕まる大昔の本を幾つも持って大事にしてた。
こっそり読んでくれたのは、ガキの好きそうな絵本ばっかりだったが。
まんまガキの顔で絵本を見せてあいつは言ってた。海が見たいんだと。
きっとこの眼は、海を見つける為に、同じ色をしているんだって。
馬鹿の言うことさ。
馬鹿でかい夢をみた頭の良過ぎる馬鹿の話だ。
―そいつか?
おっ死んじまった。
薬指が見つかったんだ。
最後の戦場で。
可哀想に、残り一本の腕だったのにな。
薬指はここにある。
何処かって?
まあ野犬に掘り返されて無くなるような場所には、置いてねえ。
王都へ行けば、薄ら寒い御立派な墓が建ってるんだろうが、俺は一度もそこへ行っちゃいない。
他は何にも見つかってないから、墓には何も入ってないだろうな。兵舎に在った兵服と、愛馬の鬣くらいか。
ああ殆ど、愛用してたと思われるものは俺がこの海に捨ててやったよ。
馬をもう走らせるのは哀れだが、身の回りの物の無いあいつも可哀そうでな。
あいつは、墓に何て大人しく納まっているようなタマじゃねえさ。
兎に角、そんな訳で俺は誰も待っちゃいねえ。
主人ももう居ない。野良犬に逆戻りだ。
戦の後の事は、若いのがやってくれてる。
そっちのが良いんだろうさ。
旧世界の老耄はとっとと隠居しちまうに限る。
ここは静かで、隠居には持ってこいだ。
お前が来て、少し賑やかにはなったがな。
まあそれも、あんまり長くない方がいい。
お前は早くここを出て行くべきだし、出て行けばきっとすぐに思い出す。
誰かがお前を待ってる。
早く帰ってやれ。
――俺か?俺は…。
昔の部下達から、戻って来ないかと誘われてる。
指導教官だとよ、俺にヒヨッコたちのオムツ替えをしろってか。
まぁ、あいつらなりの気遣いなんだろうな。
兵長は意外に寂しがり屋ですから、何て言われた時は張っ倒してやろうかと思ったが。
そりゃ、未来のある若いのと関わってりゃ気も紛れる。
巨人殺しの技術以外、俺に教えてやれるもんなんてないと思うんだが、この先何があるか分からないからな。
哀しいことに、対人格闘術だとか兵法だの武器の使い方だのってのはまだ必要らしい。
巨人どもが消えても、人類の敵は居なくならなかった。人間の敵は、人間になった。
この平和が百年続くかも、怪しいところだしな。
だが、子供が生まれて食い扶持が減るのを、疎ましく思うような世界じゃなくなった。
口減らしに老人や病人を壁外へ捨てるような真似をしなくて良くなったんだ。
素直に、ガキが生まれて、人は笑えるようになった。
優しい世界になったんだと信じてえな。
あの戦で生き残った兵も、家庭を持つ奴が多くなった。うるせえガキが倍くらいになってるんだろうな。
帰りたい気持ちも無いわけじゃない。昔のやつらもたまにはここへ来てくれるが、何だかんだ忙しい奴も多い。
懐かしい顔を見たい気持ちも勿論あるんだ。
新兵の世話だって、俺は任されたら割とやるんだろうしな。
懐かれれば、そりゃ可愛いさ。
俺のこの面と口の悪さで、よくも懐くもんだと思うんだが、意外に馬鹿正直やお人好しは多くてな。
慕ってくれる奴だってきっとこれからも居ない訳じゃない。
だけど、帰ったら。
あいつが居ないのを実感しちまう。
ここに居る間は、もしかしたらひょっこり海から泳いで顔を出すかも知れねえ、
そこの扉を叩いて、やあなんて入ってくるかも知れねえ。
凄まじく馬鹿な考えなんだが、俺の知らない間に戻って来ていて、壁内で復興に尽力してるのかも、
それともどこかで静かに誰かと暮らしてるかも知れねえな、なんて暢気に考えて居られるんだ。ここではな。
水面の色は分からないが、潮風は随分俺に甘くて。
ああ、帰ったら。
それが、きっと出来ない。
沢山人が居れば居るだけ、俺の横にあいつが居ないのが、きっとよく分かるんだ。それが怖い。
そうだな、俺はきっと、怖いんだな。
あいつを待ってることを認めるのが、あいつが居ないことを認めることと同義で。たぶん怖いんだろう。
あいつがそう簡単にくたばる奴じゃないってことは、俺が一番よく知ってる。
でも今回ばかりは、分からねえ。
御得意の博打だって、いつかは外れる時が来るんだろうしな。
すべてを投げ打っても、それがあいつの命であっても、あいつは賭けてきた。
結果、勝ちはしたが、あいつは居ねえ。実は結果に興味が無かったのか?もう世界を見に飛び出しちまったのか?
もしくはやっぱり死体なんて、影も形もなく磨り潰されちまったのか。
分からないんだ。
あいつが最後、何を思ってたのかさえ。
可笑しいな。あんなに側に居たのに。
いつでもあいつの横に居てやったのに。あいつが望めば、最期だって。
すまねえな。本当に喋り過ぎてる。何を話してるか俺自身も理解してない、しっちゃかめっちゃかだ。
酒が入り過ぎたかな。もう年だ。弱くもなるんだろうさ、肝臓だって、涙腺だって。
死ぬなと言われたんだ。何かあっても跡を、決して追うなと。けれど、常に傍に在れと。
難しいことを言いやがる、俺はあいつと違って馬鹿で、難しいことは分からないんだ。ああ、どっちだって?
けど俺は、あいつの言うことを聞く事に慣れ過ぎてる。今だって聞いてやってるさ。跡を追って死にもせず、生きもせずに。
褒めてくれる主人はもう居ないのに、馬鹿みたいに待ってる忠犬みたいにな。褒めてもらえることなんて、数えるほどしかなかったのに。
いつだって当たり前みたいな顔をして、俺を隣に置いてただろう?
なんで居ない。どうして、全部終わった今、ここにお前が居ないんだ、なあ。エルヴィン。
・・・お前の眼の色は、何色なんだ?
雀茶、鳶、金糸雀、鶯。青い色以外は、鳥と同じ名前ばかり。
群青、紺碧、縹、瑠璃、露草、杜若。
白藍、秘色、勿忘草。
ああ本当に、その声は似てるんだ。
言ってくれ、その声で。
もう、いいからって。
呼んでくれ。
もう一度、名前を。
村へ下って暫くすると、私は自分の事を段々と思い出した。
隣村に居るという行方不明者の家に行くと、そこには私の家族が住んでいた。
どうやら家業の農作物を街へ馬車で運ぶ途中、高波に攫われたらしい。
村の誰にも語りはしなかったが、記憶の回復後久方振りに会った婚約者、
後に妻となった彼女には、調査兵団の所縁の土地に居たこと、そこで世話になった彼のことを話した。
折に触れ、彼らの話題が田舎町にも入ってきた。
勇敢な彼らの働きで、壁外の地図はこれまでの何倍もの広さにもなっている事、
古い禁書にあった沢山の種類の動植物を発見した事などが私たちを喜ばせた。
また、小さな噂で、人類最強と呼ばれた歴戦の兵士が、壁内へ帰還し、訓練兵団の指導教官へ任官を受けたとの話を聞いた。
それから私は年に一度、彼に拾われたであろう日の辺りに届くように絵葉書を送っている。
絵柄はいつも同じ、海の風景のものを選んだ。最初は、仕事柄多くの人間のことを記憶に留めておかないといけない彼に、思い出してもらおうと配慮のつもりでそれを選んだ。
さまざまな画家の目から見た海の絵の余白に、健やかでありますようにとの祈りと、家族の名前と年齢と、その年の村の近況などを書き添えた。
そして何とも驚くべき事に、春先には律儀に、簡素ではあるが返事を書いて、彼も絵葉書をくれるのだ。
人柄と同じようにぶっきらぼうでいて、その癖真摯で優しい字を書く事に、私も妻も苦笑した。
彼が幾度と無く救ってきた命のひとつであるところの私は、終ぞ彼に会いに行くことはなかった。
それを知ったのは、何十年もとり続けている地方紙の新聞の小さな訃報欄だった。
偉大なる歴戦の兵士死す、などという大仰しいことは書いていなかった。
親しい者が取り計らったのだろう、実に彼らしい簡素さで、しかし訃報を打った者の友人への慈しみがそこにあるようだった。
元調査兵団兵士長リヴァイ、永眠す。
死因の記載は無かった。ついでに、生年についても不詳とされていた。
私が絵葉書に綴る家族は増え、孫の名前すらあった。
年齢の判断のつけ難い容姿ではあったから多少の差は分かりかねるが、口ぶりや兵役の長さから私よりも年嵩と思われる彼も、
老いという誰にも逆らえぬ波のようなものに揺られて逝ったのだろうと想像できた。
彼が亡くなって初めて、私は王都を訪れた。
今は既に王都でなく、首都と呼ばれている。王制を捨てたからだ。
彼の育てた子供たちは王にでなく、只、公である民にその心臓を捧げていることになるんだろう。
彼の墓は戦没者の慰霊碑と同じ、兵団墓地内にあった。
『第十三代調査兵団団長 エルヴィン=スミス 人類の誇りの為に戦い、誰よりも尽力す』
流暢に凝った綴りでそう刻まれた大理石の墓石の隣、少し小さい、奇妙に温かみのある丸みを帯びた石に『調査兵団兵士長 リヴァイ 眠る』とだけある。
大きな墓の方はもう随分昔に立てられたそうだが、頻繁に手入れされているのだろう苔生すということもなく、未だ献花に溢れている。
新しい小さな墓の方には、みな一様に青い花が添えられていた。
道すがら、通り掛った若い兵士に、「我々の先達と同志へ墓参頂き、有難うございます。お帰りは、どうぞお気をつけて」と礼を受けた。
友人の子や孫と思うと不思議と慕わしく、有難う貴方もどうか体をご自愛下さいと返すと、まだ少年のあどけなさを残した顔で、はい、とはにかんで笑った。
持ってきた花は彼らの二つと慰霊碑に分けて、それぞれ添えてきた。
街は、芽吹きの季節。解放祭に人出を多くしている。
賑やかな街で花をもう一つ買い求め、帰途に就いた。
彼と出会った浜辺があった。
岩場は老人の脚に優しくない。
崖は海原へと突き出し、切っ先を向けている。
春の海は不思議と穏やかに煙る顔で、その刃を懐に受け止めている。
墓に置こうと持っていた紅茶の缶とドロップを、懐から取り出す。
これは、彼が任官を受けて引っ越した為に、手渡されることのなかった紅茶屋のものだ。
引き取ってそれから随分長い間、私の家に留め置かれていた。
軽く反動をつけて海へ放り投げる。
湿気た紅茶の缶、薄荷の白を抜いたドロップの包み、青い花、彼から届いた海の風景ばかりの絵葉書たち。
それぞれ放物線を描くもの、はらはらと散らばるもの、すべて紺碧の翳刺す崖下へ落ちていく。
もう、いいから。もう、待たなくていい。
行きなさい。お前を必要とするところへ。
私はあのとき、ひどく厳かな気持ちで呟いた。
そしていつか、還って来なさい。
彼は命令でなく、約束を守ったのだ。天寿を全うして、帰還の途についた。
恐らく、魂はかつての壁の内になど、もう無く。彼の上官が焦がれたと謂う溟海こそ在るのだろう。
彼は、海の色を知れただろうか。
いや、きっと見ただろう。
何をも圧倒する壮大なまでの青。
何色にも喩え難いあの色彩を。
待ち人の瞳を。
彼の名を呼んだ。
彼に乞われたときのように。
投げ掛けた声は波音に紛れて届いたかどうか分からなかった。