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​ルナー・フィーバー

ごく薄い水色の錠剤を口に含むと、ほんのりとした甘さが舌の上に広がったような気がした。
これを飲むようになってから、もう二週間は経っただろうか?
事の始まりを思い返しながら、俺は細かに震える手でコップを取った。

──小さな毒。これでエルヴィンを殺すんだ、と呟いて。

 


*

 


はじまりは安い喜劇のようだった。
会社の非常階段から誤って転げ落ちた俺は強かに頭を打って、見上げた都会の狭い空にソレを見た。
巨人だ。
肌色のソレが、駅前のビルから顔を覗かせた瞬間、俺はすべてを思い出した。

突然現れた異形の巨人たちに、街の人間は驚く様子もない。
これは俺の記憶かまたは、幻覚なんだとすぐに気がついた。
逃げるように非常口から社内へ戻って、次に見たのはかつての同僚たちだった。
何日も洗っていないだろう髪を括ったそいつは何食わぬ顔で仕事をしていた。

「──ハンジ?」

「え?」
首に掛かっている社員証とは違う、その名前を呼びかける。
そいつは振り向くと、どうしたんですか○○さん、と言った。
前からもう一人、同じ顔がやって来て俺は、ほとんど恐慌状態に陥った。
後ろからはハンジの同僚のモブリットが三人。ニファが二人。
立ち眩みを起こしてしゃがみ込んだ俺を介抱しにその男が二人現れて、俺は今度こそ完全に床に伸びた。

──エルヴィン・スミス。

 


*

 


過去の記憶か、別世界の物語か、はたまたただの妄想か。
道ゆく人間はだいたい、あの世界の登場人物に見える。
似た特徴を持つ人間は分類分けされるのか、同じ人間に見えるようだった。
相貌失認という症状に近く、親しかった人間もみんな見分けが付かなくなった。

そして次は、眠れなくなった。
この世界でもほとんど寝椅子と化している、唯一寛げるはずのソファに腰掛けて尚、
みょうに目が冴えて寝付けず、やっと眠れたと思うと、夢が始まった。
そちらが現実かと思うような、生々しい記憶の夢。
ドブの底のような地下街のあの空気、初めて人を刺した感触、馴染みと飲んだ安物の紅茶の葉の香気、ブレードの重み、軍靴の硬さ、仲間が咀嚼される音、踏み潰される群衆の声。
心温まる人生の一幕と、滑稽なほどにスプラッタなショーとの組み合わせは最悪だ。
あっという間に眠れなくなって俺は、面白いくらいに正気を失っていったのだった。

会社には、頭部強打のために起きた相貌失認と、不眠のことだけを話して、休職させてもらうことにした。


睡眠薬を飲み始めた。
ドラッグストアにあるものはあっという間に効かなくなって、医者にかかることにした。
生命保険に入れなくなる、会社にバレないだろうか、なんて考えはゴミ箱に丸めて捨てた。
とにかく寝かせてくれと祈るような気持ちで、心療内科とやらの門扉を叩いたのだ。

『どのような症状がありますか?』と、丸い優しいフォントで書かれた紙に、
巨人のことも、夢のことも書かず『不安』『不眠』とだけ書いて出した。

ロヒプノール、サイレース、リスミー、レンドルミン、アモバン、マイスリー。
色々な種類を試したが、中でも抜群に効いたのがハルシオンだ。
早く効いてくれとグレープフルーツジュースで流し込んで、昏倒するように眠る。
夢も見ない。
いや、ハルシオンを飲むようになってからたまに見るようになった夢が一つだけあった。

エルヴィンの夢だ。

 


*

エルヴィン・スミスはかつて俺の直属の上司だった。
地下から俺を直々に拾い上げた奴と俺のあいだには、いつしか特別な何かがあったように思う。
そのうちに情を交わすようになった。
その体温を、夢で思い出した。
俺より高い奴の体温は熱いほどで、腹の中に迎え入れると火傷をしそうに思った。
事が終わってから、その腕に、胸に触れると、手に余るほどの熱がそこにあった。

夢では些細なやり取りばかりを思い出した。
備品のアレが欠けているから補充してくれだの、ここを掃除させろだの、馬の機嫌が近頃良くないという、日常のやり取りばかりをだ。
夢の中では勿論、好きに動けない。
だから同じやり取りを繰り返すばかりなのだが、そんなつまらないことでさえ、
起きると涙が溢れるほどに、愛しかった。

ああ、俺は、エルヴィン・スミスを愛していたんだと。

 


*

 

会社を休職して四ヶ月目、そいつと出会ったのは、心療内科からの帰りだった。
そいつもたまに見かけるエルヴィン・スミスの一人だった。

「あの、大丈夫?」

顔色が真っ白だけど、とそいつは言った。

その日は確かに体調が優れなかった。
街中で見かける人間が揃って俺の班の奴らばかりで、通りすがった巨人も女型だったのが良くなかった。それですっかり嫌な気分になった俺は早々に頓服の抗不安薬をアクエリヤスで飲み下したのだった。


駅のベンチでぼんやりと薬が効いてくるのを待っていると、次第に感覚が鈍麻して来るのを感じる。
夢を見たくない、いや見たい、という不安がなくなって、泰然とした気分になって来るのだ。

 

「だいじょうぶ、とは」
平坦に話す。感情が止まっているからだ。
そのエルヴィンを見上げる。
背が高い。エルヴィンだから勿論だが、あの当時のエルヴィンと同じ背丈だ。
深緑のモッズコートはあの頃着ていたマントを思い出させた。

「一人で歩いて帰れる?──あ、ナンパとかじゃなくて、これは本気の、心配の話」

そいつはお節介なことに、俺の落とした調剤薬局の薬袋を拾い上げ、家どこ?すぐそこなら、送るよと言った。
その低い、身体の深いところに響くような声。
差し出した手のその造形。

──エルヴィンだ。

「……かえれない、かもしれない」

「人を呼んだ方が?」

俺は黙って、首を緩慢に振った。
エルヴィンは、じゃあ送るね、家どこ?と言って、俺を家まで送ってくれた。

「横になって。お水、持ってくるから」

「悪い……」

立っていられないほどの強い眩暈を感じ、素直にベッドに横たわる。
そいつは水の入ったコップを持ってやって来ると、じゃあ、と言って出て行こうとした。


俺は咄嗟にその腕を掴み、まて、と力無く言った。

「ここに、いてくれ」

声は小さく、語尾は掠れてしまった。
届いたかどうか分からないその言葉に答えるように、エルヴィンは俺の掴んだ腕を握り返した。
熱かった。

 


その熱さに、夢を思い出して、一筋涙が頬を伝っていった。


後編に続く

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