傷
*
「ぼうやたち、あけておくれ。おかあさんだよ。」
そう言って扉から差し出された手は確かに真白でしたが、覗いている足は真黒でした。
お母さんのふりをした、それは狼なのでした。
「おおかみがきたぞ!」
仔山羊たちは隠れました。
「どこへかくれても、むだだよ。さがしだして、たべてやる。」
*
デート
*
どうしてそのことを、すっかり忘れていたのでしょうか。
継母の手が、小さくひ弱な少年の肉体を暴いていきます。
継母が手を振り上げるたび、屠殺される前の子羊のように白い肉体は戦慄き、そこへ赤や青の醜い痣が施されてゆくのです。
酷い化粧でした。
本来なら、愛され慈しまれるべきその白さは、それを愛し慈しむべき大人によって、すっかり穢されてしまったのでした。
「どうして……。どうして忘れていたんだろう。忘れていられたんだろう」
私は全身の力が抜け、みっともなくふらふらとしゃがみ込みました。
器具庫の埃の散った床についてしまった膝が汚れています。
「辛いことは、分け合えたからさ。俺と、兄さんで半分こ。……よくしただろう?」
「……ああ、何でも分け合った。嬉しい事も、悲しい事も」
弟は、エーリヒは笑っていました。
片頬を上げて、皮肉そうに笑うその顔は私によく似ているはずなのに、やはり何処か違うのです。
ああ、悲しんでいる、と感じました。弟は悲しんでいる。
リリーの境遇にでしょうか?もしくは自分?それとも私たちが今はこんなにも違ってしまっていることでしょうか。
エーリヒは抱きしめ合っている幼い双子の肩へ、そっと手を置きました。
「だから、リヴァイも知るべきだ。リリーの嬉しい事も、悲しい事も。知らない振りは許されない。
分かち合うと約束したなら、それは果たされないといけない。そうだろう?リヴァイ。」
「エーリヒ!」
「……分かった。おれは、リヒャルトと分け合うって約束した。
リリー……、おれが代わる、おれがお前の家に行く。お前が父さんに付いて行くんだ。」
リヴァイは震えて泣いていたリヒャルトに、言い聞かせるようにそう言いました。
「おれなら心配することない。お前よりけんかだって強いし、そのクソ野郎を叩きのめせる。だから、」
「いやだ!」
泣いたまま顔を上げたリヒャルトは、大きな声を上げてリヴァイに縋りました。
「リヴァイはだめだ!いやだ、おれはリヴァイをあんな奴のところへやりたくない、おんなじ思いなんか、全然させたくない!」
小さく端正な顔を涙でぐしゃぐしゃにしたリヒャルトは、そう叫ぶとリヴァイをぎゅうと強く抱き締めました。
「リリー……!」
リヴァイは、リヒャルトと同じ、淡墨色の瞳を一度大きく見開くと、ぽろりと涙を零しました。
同じ力でリヒャルトを抱き締め返し、その首に顔を埋めました。
うつくしい光景でした。
けれど私は、それにどこか既視感を覚えて、床へ跪いたままクラクラとする頭を抱えました。
――エーリヒ!
――エルヴィン!
『ああ、エーリヒ。どうして』
『こいつはこうなるべきだった。おれと、にいさんをべつべつにした。』
階段の下へ、継母が倒れています。
階段の上に立っているのは、ああ、私でしょうか?弟でしょうか?
その後は、あっという間でした。
家の手伝いをしている人間がそれを見つけ、救急車がやって来て、女は何処かへ運ばれていきました。
急いで帰宅した父は、私たちの様子にすべてを悟り、謝罪しました。
すべて、片付きました。きれいになったのです。
けれどそれから、私はエーリヒが恐ろしく、無言で責められているかのように感じて、少しずつ疎遠になっていきました。
そして私は、すっかり全てを忘れました。
エーリヒは、私のその様子に怒るでもなく、家を離れて私と距離を取りました。
それは、きっとエーリヒの優しさだったのです。
「……おじさん、おれは、リヴァイにおんなじになんかなってほしくない。リヴァイが好きだ。おれの、たったひとりの兄さんだから。
だから、おじさん、リヴァイをあいつのところへやらないで。」
リヒャルトは、はっきりとした声で言い切りました。強い声でした。真直ぐな目でした。
エーリヒは、屈んでリヒャルトと目線を合わせました。
「じゃあ、お前が戦えるか?お前が、母さんを助けてやれるか?
あいつを母さんから取ったら、母さんが可哀想だからなんて、もう言わないか。
リヒャルト。お前が決めるんだ。お前がお前を守るんだ。お前と、母さんと、リヴァイを。」
エーリヒは真摯な瞳で、リヒャルトにしっかりと向き直り、そう訊きました。
「……うん。おれが戦う。あいつに、勝つ。おれが悪者になってもいい、あいつを追い出したい。
母さんと、リヴァイを、……おれを、まもりたい……っ!」
リヒャルトはまた顔を歪め、ぼろぼろと涙を流しましたが、決して顔を下げませんでした。
絶対に俯くものかと、震えながらでもそれに耐え、リヒャルトは強い瞳でエーリヒにそう啖呵を切りました。
エーリヒもまた、決然とした表情でそれを聞いた後、少し表情を和らげ、微笑みました。
眉毛を下げたようなその笑い方は、私というより、私たちの父に似ているものでした。
ポン、とリヒャルトの頭に手を置くと、「よく言えたな。」と歯を見せて笑いました。
「よし、それじゃあ善は急げだ。ここに、そのクソ野郎がお前に何をしたか、会社で何をしたかの資料がある。」
「……は?」
いっそ朗らかと言っていいような声音でそう言うと、鼻歌でも歌い出しそうにエーリヒが自分のズボンのポケットを漁り出しました。
しばらくごそごそとやっていましたが、「おっ」とマイクロSDのようなものを取り出すと、楽しげな口上を始めました。
「リヒャルトの身体についた傷や痣の写真。暴言と暴行の日付と記録。その動画。殴っているのだけだがな。
勤め先の会社で横領を行っている証拠。上司の妻との不倫。その写真。
ああ、兄さん車の鍵は返しておくよ。いや、高級車はいいね。時代はハイブリッドだな。音が静かで気づかれない。
それとこいつは結婚している。嘘をついてお前たちの母さんとお付き合いしてるって訳だ。母さんも気づけてハッピーだ。」
まったく、屑の俺もびっくりのクソ野郎さ、とエーリヒは口笛を吹きました。
車の鍵をぽいと放られ、呆けていた私は慌ててそれを取りました。
「お前、今日、私の車でそれを?」
「うん、まあレンタカー借りても良かったんだが。丁度兄さんに会いたくもなったしね。
さあリヒャルト、これ持ってお前の家に行こう。そろそろ母さんの帰ってくる頃だろ?
クソ野郎は今日はお泊りで、帰ってくるのは明後日だ。ああ、お前たちの母さんのお手製のケーキを頂きたいな。」
エーリヒは証拠品を無造作にズボンに突っ込むと、リヴァイとリヒャルトの頭をぽんぽんと叩きました。
「驚かせて悪かったな、リヴァイ。でもちゃんと、お前の大事なセンセイは来てくれただろ?
助けてと言えば、助けてくれる大人はいるんだ。
リヒャルト、お前のいけないところは、俺に助けてと言えなかったことだ。おじさん、ちょっと悲しかった。
けど、よく自分で決められたな。お前がお前を守ると決めたなら、俺はお前を守るよ。」
「ッおじさん……っ」
リヒャルトは、エーリヒの首にぶら下がるようにして抱きつくと、「ごめんなさい」とまた涙を零しました。
小さな頬を伝った涙は、ぱたぱたとエーリヒの首もとを濡らしました。
「ごめんなさいじゃなくて、こういうときは、ありがとうって言うんだ。そうだろ?」」
エーリヒはリヒャルトの小さな後ろ頭を撫でながら、やさしく、ゆっくりとそう諭しました。
「うん……っ、おじさん、ありがとう……っ」
よしよし、いい子だな、と片手でリヒャルトを撫で、もう片方でリヴァイを撫でました。
「……エーリヒ。お前、ふたりの母上に会って、どうするつもりなんだ。このままだと、お前はただの変質者だろ。百歩譲っても犯罪者だ。」
「いいさ。どうせ屑だ。何の罪に問われたって、今さらだろう?」
「……あの日。どちらが継母さんを押したんだ?
……どちらが、継母さんに、」
「・・・・・・どっちだっていいだろう。あの頃、俺と兄さんはふたりでひとりだった。
どちらでも同じことだ。
兄さんが殺されたのなら、それは俺も殺されたってことだ。」
私はもう堪えていられなくなり、ついに涙を零しました。
ぱたぱたと落ちた涙は、器具庫のコンクリートの床へ打ちかかり、染みを作っていきます。
私は弟に守られていました。
すべてを押し付けてすっかり忘れて、
野卑で、下品で、最悪な汚辱のかたまりだと勝手に思い込んで蔑んでいた弟が、私の純潔を守ってくれていたのでした。
情けなく、恥ずかしく、私は私自身が許せそうにありませんでした。
エーリヒに持っていた勝手な優越感も、劣等感も、嫉妬も蔑みも、すべて間違っていました。
エーリヒはあんなにも、優しく気高い教育者である父に似て、愛するものを守ろうとしています。
幼稚で自分勝手な私がリヴァイへ向けたのは何だったでしょうか。
劣情。独占欲。嗜虐心。それだけだったのではないでしょうか?
私は顔を上げられそうにありませんでした。
けれど、床へ手をついて泣き始めた私に、そっと触れる手がありました。
「せんせい。」
リヴァイです。
リヴァイの幼い瞳が潤み、顰められた細い眉毛がふるふると震えると、リヴァイは私を抱き締めました。
あの、透明なほどに白い手が、私を包み込むと、不思議な温かさに包まれました。
リヴァイの小柄な身体では、私の身体の半分ほども覆えないはずですのに、触れている部分から温かさが広がってゆくのです。
リヴァイは私の頭を抱くと、エーリヒがリヒャルトにしてやったように、やさしく、ゆっくり、撫でてくれました。
「せんせい、泣かないで。おれがいるから、ずっとずっといるから。
先生が助けに来てくれたみたいに、今度はおれが守ってやるから。」
だから、せんせい。と掴まれたその手を、私は握り返しました。
小さく、透き通るかというほどに白く、清らかで、とても強い。
「先生、助けに来てくれて、ありがとう。」
リヴァイは微笑みました。あの、恋に落ちた日のようにはにかんで、笑い慣れていない、内気なリヴァイの笑顔でした。
「リヴァイ……ッ」
私は顔を涙で汚したまま、リヴァイを抱き締めました。
強く強く、抱き締めました。
小さいと思っていた身体は、意外にもしっかりとしていて、靄や霞では決してありませんでした。
芯の強い、少年の肉体なのです。
私はそれに縋って、それこそ子どもに返ったように泣きました。
リヴァイはそれに強い力で応え、抱き締め返しながらも、私の頭をあやすように撫でてくれるのでした。
「さ、あっちもこっちも片付いたところで。リリー、行こうか。」
「うん。」
リヒャルトはこくと頷くと、リヴァイに駆け寄りました。
「……巻き込んで、悪かった。おれ、頑張るから。」
「謝るな、怒っちゃいない。……いややっぱり、ちょっと怒ってる。分け合うって、約束しただろ。ちゃんと言え、相談しろ。」
「……うん。ありがとう、リヴァイ。」
そっくりの兄弟はコツンと額をぶつけ合うと、それぞれの頬へ可愛らしい小さな接吻をしました。
「何だ、妬けるな。兄さん、俺たちもしようか。」
「……エーリヒ。私も付いて行く。リヴァイとリヒャルトの母上には私から連絡を取る。明日、話し合おう。
担任ではないが、生徒指導の私が生徒の生活に多少踏み込むことは有り得ることだろう?なるべく小奇麗にして待っていろ。」
「……問題になるだろ。踏み込み過ぎだ。だいたい俺は別に、今さらお勤めをしたって構わないんだ。どうせ暇してる」
私はぐいと目を拭うと、立ち上がってエーリヒの胸ぐらを掴みました。
ぐら、とエーリヒの身体が揺れて、目の前にそっくり似た顔がありました。
勢いのあったものですから、私たちはごち、と額をぶつけました。少し痛みました。
「私も行く。いいな!……分かち合うと、言っただろう。」
エーリヒは揺さぶられてキョトンとしています。
私がこんなに乱暴に振る舞ったのは、恐らくはじめてのことでしょう。
ずいぶん間抜けな顔なので、私は苦笑しました。
エーリヒも、同じように苦笑して言いました。
「そうか……。……ありがとう、エルヴィン。」
「……これまで済まなかった。エーリヒ。全部お前に押し付けて、私だけすっかり忘れていた。」
「すまない?ありがとうだろ。いや、……俺はずっと、兄さんに押し付けてた。分かち合っただけだ。」
だから、俺たちはごめんもありがとうも、言わないでいいんだ。とエーリヒが言いました。
その後笑った顔は、やはり私というよりは私たちの父に似ていましたので、私は何だか悔しくなって、
「……父さんに似てきたな。」と弟の肩を叩きました。
「……お前はちゃらんぽらんだが、教師に向いてると思う。大学は出ただろう、教員免許は?」
「持ってるよ。……でも嫌だな、同じ学校だなんてクスクス笑われるぞ、仲良し兄弟だって。」
馬鹿、誰が同じ学校だなんて言ったんだ、と叱るとエーリヒは肩をすくめて歩き出しました。
そしてリヒャルトの肩を抱き、扉へと向かいました。
「じゃあ兄さん、明日はダブルデートだな。楽しみにしてるよ。」
振り向かないまま手を振り、数歩行くと、ふと思い出したように、エーリヒは言いました。
「兄さんの方が父さんに似てるって、俺はずっと思ってたんだ。」
分からないものだな、と振り返って笑って、私の弟は去って行きました。
あれは確かに、血を分けた私の弟でした。
分かち合うと誓った、あの日の弟のままでした。
「せんせい?」
――先生、おれたちも、行こう。おれ、先生にたくさん、話したいことがあるんだ。
おれは、先生に何でも話すから。助けてほしかったら、助けてくれるって、おじさんが教えてくれたから。
おれの家の風呂の窓の話を覚えてる?一枚だけ、青色の窓。あれ、リヒャルトが割ったんじゃないかって。
また明日、リヒャルトに訊くよ。
明日、何着て行ったらいい?……デートだから。
夏祭りあるんだ。母さんも一緒に連れて五人で行こう。
おれはリヒャルトとお揃いの浴衣があるから、先生とおじさんも、お揃いの、着たらいい。
はじめての、デートなんだからな。
弟に貸した車には、想像したとおりガソリンは足されていませんでした。
私は少し笑って、リヴァイの家まで車を走らせると、リヴァイに約束しました。
「君とリヒャルトが、私と弟が分かち合うように、君と分かち合いたい。君と、分け合うよ。いいかい?」
結婚してくれないか、という台詞は、少し考えて、一度飲み込みました。
浴衣を着て花火の下を歩きながらでも、それは言えるはずです。
リヴァイのまだ細い指に合う指輪だって、探しに行ってからでもいい。
一世一代の大事な告白なのですから。
それにこれから、私とリヴァイには、幾らでも話す時間があるはずです。
私は助手席の背にそうっと手をついて、大事なものに口づけました。
リヴァイは透けてしまいそうに白い肌で、いいえ、それをやさしい桃色に染めて、
いいよ、先生。と微笑みました。