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2 チェリーのにおい





私はあの清かったはずの、今は汚濁でしかない水溜りに雷を打ち落とす覚悟をしたのです。



「チェリーのにおい」



あの日の裏切りの光景が瞼を焼き、眼球に染み付いて、瞬きをする度、それは繰り返し私の前に幻影として現れては、消えて行きました。

私は怒りの奔流の中に放り投げられ、もがき、屈辱がもたらす理性の痺れにのたうち回っておりました。

リヴァイは私以外の、しかし私そっくりの男に、その体を開いていたのです。

何より清らかで澄み切っていたはずのリヴァイの泉は易々と男に蹂躙されていたわけです。

あまりに滑稽で、酷い話でした。

リヴァイを犯していた私そっくりの男は私ではなく、疎遠になり行方も知れぬ私の愚弟でありました。

私たちはそれはそっくりな双子の兄弟でした。

母譲りの美しい金の髪、つやつやとした薔薇色の頬、冴えた月のように白い肌。
父に似たみずいろの瞳。

まるで鏡に映したようにそっくりでした。

ただ、魂まではそうはいかなかったようで、品行方正で優秀な私に対し、弟はどうにも無体が過ぎました。
いわゆる不良と呼ばれる者たちと付き合い、夜はふらふらと外を歩き回りました。
肺と品性とを汚す毒素のかたまりである煙草なんかを吸い散らかし、家の金を漁っては、母を泣かせていました。

ニヤニヤと醜悪に笑う顔はそれが自分にとてもよく似ている、いや寸分の狂いもなく同じであるが故に、
一層気味が悪く、吐き気のするほどで、私は愚弟を嫌い抜いていました。

その弟が、私の心ひそかな想い人であったリヴァイを、そのヤニ臭い息を吐き散らかし、鈍重な肉体で圧し掛かり、犯し汚し尽くしていたのです。
これはもはや喜劇と言えましょう。


泉は、一度濁ってしまえば、ただの水溜りです。

湧き上がる潔白な水が見た目には濁りを流しても、泉のふちを見れば、そこは汚れたままなのです。
土に浸み込んだ汚れは決してなくなることはありません。


汚い。汚い汚い汚い。汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚いきたないきたないきたないきたないリヴァイと交わした唇を私は何度も何度も水で濯ぎましたそれから私は何を口にしても血の味しかしなくなってしまったので困り果てました、いつの間にか繰り返し繰り返し玄関のチャイムが鳴っていました。




「やあ、兄さん。何年ぶり?」

教員住宅の質素な作りのドアを開けると、愚弟でした。
外を歩くというのに部屋着にも劣るスウェット姿で、便所サンダルでペタペタと歩き回るこの男が自分と遺伝子を同じくするものかと思うと、私は頭がおかしくなりそうでした。

「・・・・・・どうしてここが分かった。帰れ」

扉を閉めようとするとドアとの間に足をねじ込まれ、立ち話も何だから、入れてくれよ、と半身を挟み込まれてしまい、思わず嫌悪感に顔をゆがめました。
ですがこのような姿でこのあたりをぶらつかれても困りましたので、渋々ながら部屋へと入れてやることにしました。

「いいところに住んでるなあ。交通の便もいい。さすが、せんせい。」

揶揄するような響きに苛つきましたが、これの癇に障るような喋り方は昔からでしたので、いちいち目くじらを立てていてもいけないと気を落ち着けました。

「父さんから訊いたのか?・・・・・・あの人は昔からお前に甘いところがあるからな」

「いいや?学校からつけたのさ。学校はリヴァイに訊いて知ってる。すぐ分かったよ、リヴァイの話す"せんせい"が兄さんだって。」

リヴァイ。
弟の口から出る彼の名前が、こんなにも凄まじい動揺をもたらすとは思っていませんでした。

ふらと一瞬眩暈がしましたが、どうにか堪え、私はこの世の汚物を煮詰めたものを見るような目で、弟を凝視しました。

「お前がリヴァイの名を口にするな。汚い。汚らわしい」

「汚らわしいのはそちらも変わらないだろう?可愛い生徒で何回シコったんだ、聖人先生?」

クスクスと笑う弟は昔、父の出張のお土産で強請ったラジコンのヘリコプターを手に入れたときのような顔をしていました。
自慢げで、勝手な優越感に浸っている。
私はヘリコプターなど望まず、父に図鑑を頼みました。父の研究している植物の図鑑でした。
父は私の頼みを、顔を綻ばせ喜んでいました。

「なあ。入れ代わってやってもいいんだ俺は、ねえ兄さん。」

「・・・・・・は?」

楽しそうに笑い続ける弟は部屋の中のものを時たま物珍しそうに手に取っては、ひねくり回して眺めています。
硝子細工のイルカを、弄びながら弟は言いました。

「リヴァイをハメたいんだろ?俺と代わってやってもいい。
 兄さんは昔から臆病者だったからな、聖人然とした教師様、ご立派な大人様のままでは何も出来やしないんだろう?
 代わってやるよ。髭を伸ばして、髪を整えずに、服を取り替えればそれで誰も分からない。ただの、兄さんの軽蔑する、屑だ。」

弟は硝子細工を手にしたまま、私に近づき、もはや唇が触れ合うかという距離まで、迫ってきていました。
数年ぶりに間近で見る弟の顔はどう見ても鏡の中の私と寸分狂わぬ生き写しなのです。
伸びている無精髭の生え方でさえ、私と同じです。
睫毛が何本、眉毛が何本と数えたら、きっと一本の差異もないほどに、私そのままでした。

ただ、吐き掛けられる息だけは酒臭く、私との間にその違いだけは明確にありました。

「父さんも母さんも、同じ格好をした俺と兄さんが分からないときがあったね。リヴァイに分かりっこないさ。
 ただの子どもだ。
 小さくて、可愛らしくて、サクランボのようだ。でもあれは、とっくに熟れて、腐ってる。腐りきってる。
 なあ兄さん、リヴァイが許せないだろう?憎いだろう?
 兄さんを裏切った薄汚い子豚ちゃんに、正義の鉄槌を下せばいい。
 俺は知っての通り屑だし、もう相当リヴァイを抱いてる。俺のせいにしたらいいさ。俺がしたことだ。そうだろ?」

酒臭い息は妙に甘ったるく、俯いた私の耳に注がれました。
ねばねばとそれは絡みついて、頭の中にこびりつくようです。

「いつでも連絡くれよ。ずっと暇はしてるから。」

メモを置いて去る弟を、私は追い払うことも、追うことも出来ませんでした。
ただ、ぼんやりと立って、去って行くそっくり同じ顔を見送っていました。

「あのヘリコプター、そんなに欲しかったなら一言言ってくれたら良かったのにな。
 たったふたりの兄弟きり、共有すれば良かったんだよ、兄さん。リヴァイみたいにね」

気づけば弟の姿はなく、硝子細工のイルカと心中するかのように、ラジコンのヘリコプターは床に落ちて砕け散っていました。



しばらく、炙って溶けた砂糖のような甘い声音で、私を唆す弟の悪夢を見ました。
私が弟のその声から耳を塞いでいるといつの間にか弟とリヴァイは目の前でけもののように息を荒げ絡み合っていて、
美しい脚をひけらかし弟の腰に絡めるリヴァイは淫婦さながらに笑っていました。

爛熟して腐り落ちそうなサクランボのにおいが、弟の下品な甘いにおいと混ざって私を苛みました。


目の下に隈がくっきりと表れるようになったころ、私は渡された電話番号にコールしました。

弟は、これもよく私に似た声で、あの安物の砂糖菓子の声で、私に囁きました。

「やあ。掛けてきてくれると思ったよ。
 お互い、上手くやろう。
 ああ、爽やかなミントの歯磨き粉の香りなんかさせてちゃいけないからな。
 一杯飲んでおきなよ。泥酔してればちょっとくらい手つきがたどたどしくても大丈夫さ。
 まさかチェリーだなんて、リヴァイに気付かれないようにな!」

























 

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