4 浴室と朝顔
君はあの日、私にほんの少し微笑んだことを、憶えているでしょうか?
( 浴室と朝顔 )
夏の日に珍しく、随分からりと晴れた日でした。
夏休みの小学校、私は花壇に水を撒いていました。
この学校の花壇は広く、見事なもので、真夏でも十種類ほどの花が咲き乱れていました。
子どもたちに人気のあるのは背の高いヒマワリの並ぶ花壇で、プールの授業を終えた生徒たちが帰り道に、
大輪のヒマワリから種を取っていくのを、私は微笑ましく眺めました。
少し歩いた、校舎から離れた運動場の端の壁には、朝顔が咲いています。
殆どは濃い青色で、たまに紫や、薄い水色が混じっていました。
私は、自己主張の激しいヒマワリより、この朝顔が一等気に入っていました。
目立ちはしませんが、清廉でどこか凛々しく、それでいてすぐに萎れてしまうところなんかは、儚げで好ましく感じました。
連日の快晴で少し乾いたような花の肌に、水を撒いて潤してやると心なしかしゃっきりとして、けなげに応えてくれるのに思わず笑みがこぼれました。
そこへ、通りかかる者がありました。
当時、他学年を担当していた私には、見慣れない子どもでした。
ずいぶん小柄で、私は一瞬低学年かと思ったのですが、胸に着けている名札を見れば五年生であることが分かりました。
「ここ、先生がいつも水撒いてるのか?」
話し掛けられ、私は彼をまじまじと見つめました。
彼の同級生たちとまず何より違っていたのは、その肌です。
外遊びに興じ、真っ黒に焼けた子どもたちとは、まったく違うその肌。
濡れると透明になる珍しい白い花の名前を、私はすぐに思い出せませんでしたが、その花のようだと思いました。
「・・・・・・いいや、今日はたまたまだよ。先生たちにも水遣り当番があるんだ。」
「ふうん。」
私の答えにはもう興味の無い様子で、ハンカチを取り出し、ベンチに掛けて座りました。
やんちゃな盛りの小学生の男子がそのようなことをするのを私ははじめて見ましたので、やはり視線を外せぬまま、目で彼の姿を追いかけました。
「・・・・・・何だ?何か、変かよ」
「すまないね、ずいぶん、紳士的だなと思って。好きな女の子にしてあげたら、きっと喜ばれる。」
そう言うと、彼は照れたようにぷいと首を振ってしまいました。
「汚れるの嫌だから。それだけだ」
「そうか。先生もよくやるよ。一緒だな」
ホースを手繰って巻き付けるのに苦戦していると、彼がすっくと立ち上がり、「手伝う。」と手を貸してくれました。
汚れるのが嫌だと言ったのに、ホースから滴る水も構わない様子です。
優しい子のようでした。
「ありがとう、助かるよ。五年生だね、名前は・・・・・・」
「リヴァイ。リヴァイ・アッカーマン。」
「そうか、リヴァイ。どうもありがとう。よくここへは来るの?お昼を食べるには、少しここは暑いんじゃないかな。」
彼のランドセルの横に、弁当箱の包みがあるのに気づき、そう声を掛けました。
リヴァイは、「ああ。」と一度ベンチを見遣ると、「・・・・・・今日は、家に誰もいないから。ここで食べようかと思って」と答えました。
「暑いのに。」
「・・・・・・朝顔、見たかったから。」
一人で昼食を食べることを知られて、少しばつが悪かったのか、視線を外してリヴァイはそう言いました。
黒く長い睫毛は、伏せがちにすると頬に陰が出来ました。
「そうか。今日は蒸し暑くないから、先生も外で食べようかな。あの東屋なら屋根もあるし、椅子もテーブルもある。
朝顔も見られるよ。待っててくれ、お昼を取ってくるよ。」
「いいのか?先生、忙しくないか?」
「いいさ。」
笑ってそう答えると、リヴァイはやっと目線を合わせて、「・・・・・・ありがとう。」と言いました。
年のわりに遠慮深く、礼儀を知った子でした。
私はホースを片付けがてら、職員室から仕出しの弁当を受け取ると、朝顔の咲く東屋に戻りました。
リヴァイは水筒を取り出し、麦茶を飲んでいました。
銀色のコップにかかる指が、小さく、細く、やはり透けそうなほどに白く、力の籠もった指先だけ、ほんの少し桃色です。
正午近く、強い日の照りで玉のような汗をかいていました。
「やあ、待たせたね。食べよう」
「うん。」
それぞれ弁当を開け、食べる間、たわいもない話をしました。
五年生のはじめから、この学校へ転校してきたこと。
部活はいろいろ誘われて、結局どれにも入っていないこと。
試合のたびに呼ばれるのは、わりと面白いこと。
両親の離婚で、この町へ来たこと。
今日は父方の祖母が家にいないこと。
「前の家には、お風呂場に窓があったんだ。」
「窓?」
「うん。小さい窓。俺がふたり通ったら、いっぱいになるくらいの窓。」
「へえ」
「割れたのか分からないけど、右端が青い硝子になってるんだ。手のひらくらいの硝子。
引っ越した家のお風呂場には、窓、ないんだ。そうしたら、その硝子を気に入ってたのに気づいた。
前の家にいるときは、全然気にしてなかったくらいなのにな」
「そういうものかも、知れないね。」
「うん」
すっかり食べ終えて、リヴァイは二杯目の麦茶をコップに注いでいました。
カラコロと、水筒の中で氷が踊って鳴りました。
真夏の校庭、時刻も正午です。
くらくらするような暑さのはずですのに、リヴァイのそばは、少し冷たい風が吹いているように感じられました。
リヴァイが麦茶をごく、と嚥下する音。
喉仏のない、青白くほっそりとした喉に、汗が光って落ちて行きます。
私は、ぼうっとそれを見ていました。
「あの朝顔は、その硝子に似てるんだ。一番上のほうに咲いてた、薄い青色の。」
「・・・・・・そうか。」
「うん。・・・・・・先生、どうしたんだ?眠い?」
「いいや、何だか暑くてぼうっと・・・・・・」
「熱中症か?先生、横になったほうがいい、ほら、おれもう一枚ハンカチ持ってるから。膝貸してやる」
「いや、リヴァイ、大丈夫、」
「いいから寝ろよ、おれじゃ先生を運べない」
ぐいぐいと引張られ、困惑しながらもくらくらとしていたことは本当だったので、子どもの力のわりに強いリヴァイの腕に引かれるまま、私は彼の膝を強引にも貸されることになってしまったのでした。
白いハンカチをひいた彼の膝は小さく、私が頭を載せても低いままでした。
下から見上げる顎はやはり子どもの丸みを持っていて、可愛らしく感じました。
「シャツの釦開けるからな。母さんが昔、そうしてくれたら楽になったから」
リヴァイが幼い手で甲斐甲斐しく世話をしてくれるのを、私はふわふわとした気持ちで見つめました。
白く、先の桃色な指。未だ性別の分からないような、手の甲には骨ばっているところもなく、血管も浮いていません。
ただ、濡れれば透明になるあの花のように、まるで日を透かすかというほどに白い手。
「先生?」
首を傾げたリヴァイの、幼い顎を伝って、ぱたと温い汗が私の額に垂れました。
リヴァイはそれに気づくと、「あ。」と言ってその小さな手のひらで私の額を拭いました。
「・・・・・・ごめんな。」
照れたのか、小さく、微笑んだかのように上がった口の控えめなこと。
ちらと覗いたあの歯の形を私は今も、記憶しています。
私はあの暑い夏の日、あの膝の上で、恋に落ちたのです。
あの日のことを、君は憶えているでしょうか。
*
私がリヴァイを貶めようと、弟の部屋で待ち構え、目論見どおりにやって来たとき。
あの日とはまるで逆に、リヴァイは私のすぐ下で、すやすやと眠っています。
ざあざあ外で降っているはずの雨音はもう耳になく、リヴァイの頬に、私の涙が降りかかる音だけ、部屋にありました。
ぱたぱた、ぱたぱたと、温い涙がリヴァイの白い頬へ降り注ぎました。
「う、」
身じろぎしたリヴァイが数度緩く頭を振りました。
睫毛が震え、一度ぎゅっと瞑った瞼が、ゆっくりと、開きました。
リヴァイの灰色の瞳。
あの日の朝顔は、萎れてしまったのでしょうか。
またこの夏に咲いて、リヴァイに浴室の色硝子を思い起こさせるのでしょうか。
薄い灰色の瞳とかち合いました。
「・・・・・・おじさん?」
小さく開いたその口から、貝殻のような歯が覗いています。
「・・・・・・リヴァイ。」
思わず呼びかけました。呼んで、泣き叫んで、縋りたくさえありました。
あの日のように、膝に縋って、小さな手に撫でられたいと思いました。
「・・・・・・だれ?」
後ずさった彼は、怯えたような、よく分からない、という目で私を見ていました。
――ああ、君はあの日、私に微笑んでくれたことを、憶えてくれているのでしょうか?
*
雨風が室内プールの屋根にざあざあと吹きかかり、雑音を発している。
ずいぶんと、煩かった。
しかし男にはどうやら都合の良いようで、何を考えているのか、酷薄そうにその頬が上がる。
「あれ、エルヴィン先生?今日はお休みされてたんじゃ」
「そのつもりだったのですがね、明日提出の書類のデータをそっくり忘れてしまって。
医者帰りなんですが、これから徹夜ですよ。」
「まあ、エルヴィン先生もそういううっかりがあるんですね。お身体大事にされてね。お疲れ様です」
「ええ、ありがとうございます。お疲れ様です。」
年配の女性教師とすれ違い、男はにこやかな仮面を一瞬取り付けると、すぐにそれを外した。
向いていない。自分にはこういう暮らしはやはり難しいな、と少し笑うと、目当ての水泳器具庫の重い引き戸を叩いた。
「・・・・・・私だよ。いるかい?」
「・・・・・・先生?」
くぐもった声がして、続いて内側から鍵を外す音が聞こえた。
男はもう一度しのび笑いを「優しいエルヴィン先生」の笑顔の仮面の中に隠すと、引き戸を開け中に入っていった。
強い塩素のかおりが漂っていた。
青いプールを覆う硝子の天井が、稲妻を受けて、光っていた。