5 ねがいごと
(ねがいごと)
水泳器具庫の中は薄暗かった。
蛍光灯がついていても、湿気って留まったままの空気と、むきだしのままのコンクリートが、暗さを増幅させているように感じられた。
リヴァイは少し前からここで人を待っていた。
想い人である。
教師と生徒という垣根こそあったが、リヴァイには愛おしい相手だった。
はじめての恋だった。
コンクリートの壁は触れたらきっと冷たく、ざらざらした感触を手に与えるだろう。
待ち人の心細さから、何かに寄りかかってしまいたい気持ちではあったが、生来の潔癖な性がそれをさせなかった。
積みあがっているビート板の山の上にポケットから取り出した白いハンカチを被せ、そこへ腰掛けた。
腰を落ち着けるときに、これはあの時のハンカチだと、リヴァイはふと思い出した。
この学校に転校して、一番に目をひいたのはあの金髪だった。
他にもブロンドは居ただろうに、どうしてエルヴィン・スミスだったのかは分からない。
たまたま、高い位置にきらめいていたから、その程度のきっかけだったかも知れない。
エルヴィン・スミスは他の学年の教師で、いつ見かけても笑っていた。
けれどリヴァイが惹かれたのは、その笑顔がすうっと消えるときだった。
優しげな笑みはたくさんの生徒に向けられている。
博愛の精神を持った教師は少なくない。子どもが真から好きで、この職を選んだのかも知れない。
実際、エルヴィンは生徒たちに熱心に教えていたし、人気も高かった。
休み時間でも、多くの生徒に囲まれて、ドッジボールや鬼ごっこの輪に入っていた。
けれど、その笑顔が、すうっと萎む瞬間がある。
はじめてそれを見かけたのは、夕方だった。
夕陽が廊下に射し込み、通り行く子どもたちの長い影を作っていた。
その日は授業参観で、保護者会が終わり、それぞれの母親たちがばらばらと下駄箱に散って行った。
ちょうど部活を終えた生徒が、母親とともに帰ろうと並んで歩いている。
リヴァイは、母親を失ってこの学校へやって来ていた。
両親の不仲はもうすっかり家庭についた油染みのようで、もう誰にもどうにも出来ないものになっていた。
リヴァイは父と家を出た。
父方の祖母と同居を始め、今日の授業参観も祖母が来てくれた。
若い母親たちが並ぶ中で、年老いた祖母は浮いて見えた。
幼くして母と別れた孫に心を砕く、優しい祖母だった。
「うわ、誰かんち、ばあちゃん来てるじゃん」
くすくす笑う声がして、一瞬『恥ずかしい』と思ってしまった。
リヴァイはそのことを悲しく思った。
大事な祖母なのに。大好きな祖母なのに。恥ずかしい、と思った自分をこそ、恥じた。
「ごめんねえ。お待たせ。帰ろうね」
「・・・・・・うん。」
申し訳ない気持ちですこし心に靄がかかったようなリヴァイは、それでも祖母の手を取った。
誰に恥じることもない。ばあちゃんだって、おれの大事な家族なんだから。と。
学校の玄関口には、エルヴィンが帰る生徒たちと保護者を見送っていた。
白いシャツ、灰色のスラックス。
玄関から射し込む橙色の光が、エルヴィンの金髪をきらきらと透かしていた。
「先生、さようなら。」
「ああ、さようなら。」
挨拶をして、すれ違った。
よく見る、優しそうな笑顔だった。柔らかそうで、子どもたちに好かれる笑顔だった。
祖母はまだ履き替え終わっていないのか、リヴァイの後ろにいた。
それで、何の気なしに振り返ったのだった。
エルヴィンは、人の好きそうな優しい教師の笑顔から、すうっと、置いていかれた子どものような顔になった。
太い眉はすこし下がって、もしかしたら西日に眩んだのかも知れなかったが、目は薄く細められている。
大きな口はぎゅっと一文字に結ばれていて、固く閉じている。
柔和な大人から一転、頑なな子どものようになったのだ。
しかしリヴァイと目が合ったことに気づき、はっと口を開いて、エルヴィンはまた笑顔に戻った。
「どうしたんだい?」
「・・・・・・いいえ、何も。」
見てしまってはいけないものを見たのかも知れない、とリヴァイは思った。
祖母は靴を履き終わり、さあ行きましょう、とリヴァイを促した。
リヴァイはもう、振り返ることができなかった。
また振り返ったらあの顔をしているのかも知れないと思うと、不思議と後ろ髪を引かれた。
けれどリヴァイは振り返らぬまま、いつもの帰路についたのだった。
それから、校内で見かけるたび、何となく目で姿を追った。
エルヴィンはいつもとてもいい先生のようだったし、それは間違いないようだった。
あの表情は、何だったのだろうか。
リヴァイは思う。
あの日。リヴァイが母を、ほんの少しだけ、恋しいと思ったあの日。
あの日だったからこそ、エルヴィンの表情に、自分の胸の底と同じものを見出したのではないだろうか?
連れ立って帰る親子に、エルヴィンも、ほんの少し、さびしさを感じていたのではないだろうか?
それはリヴァイの思い込みに過ぎないのかも知れなかった。
けれど、リヴァイはそれから、何度かエルヴィンのあの顔を見かけていた。
――本当は、どうして。
どうしてそんな顔をするのだろう。
リヴァイは、可哀想だ、と思った。
そんな顔をするのを見かけるのは、何だか悲しかったし、やめてほしいと思った。
それでも、姿を追ってしまうのは止められなかった。
――訊いてみたい。
先生、どうしてそんな顔をするんだ、と。
なんて答えるだろう。子どものくせに、と思われるだろうか。生意気に、と。
リヴァイは、願った。
――先生に、すこしだけ、近づく勇気がおれにありますように。
どうして、と訊く勇気が。
先生がそんな顔することなんかないんだと、言える勇気が。
先生のことをもっと知りたいと、言える勇気が。
先生はひとりじゃないと、そう言って抱き締めてやれる勇気が、おれにありますように。
七夕だった。
リヴァイは昔家族でそうしていたように、笹の葉を集めて舟を拵え、流した。
母方の祖母の田舎にあった小川とは違い、引っ越した家の近くの用水路は先日の雨で勢いを増していて、想いを乗せた笹舟はあっと言う間に流され、すぐに見えなくなった。
手のひらに軽い、ちいさな笹舟だった。
それでも、その笹舟に、できるだけの願いを込めて、リヴァイは祈った。
好きな人に、好きと言えるように、と。
*
水泳器具庫の横にはプールの水を管理するポンプ室がある。
ぶうん、と低音が響き、器具庫の中も何となく震えている気がした。
人の歩いてくる気配がする。
エルヴィンだろうか。
エルヴィンを今日の日中は見かけなかったが、夕方に声を掛けられた。
ひそりとした声で、肩に手を置かれてリヴァイは思わず飛び上がった。
「しずかに。この後、水泳器具庫まで来られるか?すこし遅れるけれど、行くよ。」
どきどきする胸を押さえながら、リヴァイは水泳器具庫で想い人を待った。
リヴァイは先日やっと、エルヴィンに告白した。
言いたいことの十分の一も言えなかったが、これから伝えればいい。
幾らでも、ふたりには語り合う時間があるのだから。
足音は器具庫の扉の前で止まった。
コンコン、と戸が叩かれる。
「・・・・・・私だよ。いるかい?」
低く、やはりひそりと抑えられた声だった。
エルヴィンの声だ。
「・・・・・・先生?」
リヴァイは応えた。
器具庫の扉はずしりと重く、分厚い。
エルヴィンが開けるだろう。
リヴァイは内鍵を外した。
扉が開く。
「リヴァイ。」
エルヴィンは笑っていた。
教師の笑みだった。
リヴァイは、笑みの消えたあのエルヴィンの顔を今、見たいと思った。
さびしげな、置いていかれた子どもの顔のエルヴィンを。
そして、あの日の願い事を叶えたいと、そう思った。