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​いねむり

「やあ、久しぶりだな。ハンジ」

元調査兵団団長エルヴィン・スミスは首に掛けていた手拭いで額の汗を拭うと、来訪者へ微笑みかけた。
ここは彼の住む小さな家の前庭にある、一間ほどの畑だった。
壁の崩壊後、事務処理と次期団長への引継ぎを終え、惜しまれながらもエルヴィン・スミスは退役していた。
壁外での調査を今度こそ好きにやるよ、と出て行ったのは二年ほど前のことだ。

「久しぶり。随分と様になってるね、本の虫は卒業できたの?」

「多少はね」

一ヶ月ぶりの来訪者であるハンジ・ゾエは手荷物として抱えていた小包をエルヴィンへ渡した。

「貴方の本。書き終わったものを貴方がいちいち目に通すとは思えないけど、一応渡しとくね。」

「何かのときに、読み返さないとも限らない。リヴァイは鼻で笑うだろうがね。記憶力もそこまで衰えたかと」

「――今日は、リヴァイは?」

ハンジの問いかけに答えるように、エルヴィンは軽く目線を上へ動かす。
そこには子どもが腕を広げたほどの幅の、小さな窓があった。

「あそこで居眠りだ」

モスグリーンの窓枠に凭れ掛かるようにしている人影がある。
肘を付いて、小づくりの細い顎が乗っていた。
黒髪が額に掛かり、翳っている。
顰められた眉の下で瞼は閉じられており、深く寝入っているように見えた。

「近頃はあの場所がお気に入りみたいでね。一階の書斎は私が使っているから、二階で本を読んだりするのに明りがほしいんだろう。
 寝台を寄せるかと訊けば、だらしの無いことは嫌いだと言ってね。大分身体も良くなってきたのか、窓の傍に椅子を置くようになったんだ」

お茶を淹れるよ、入ってくれとエルヴィンが玄関を開け、家の中へ入っていく。

ハンジも遅れて室内に入ると、外との明るさの違いから、部屋の中が黒に塗り潰されているように感じた。
瞬いた刹那、真っ暗になる。
暫くすると目が慣れ、視界は緑がかったようになった。

「暗いね。」

「ああ、日の差し加減でね。奥の書斎はかなり明るいんだが。さあ、掛けて」

片手で手際良く薬缶に水を汲み入れると、竈にかけマッチを擦る。
煌々と点る火が、真昼だと謂うのに薄暗い室内で、ほんの少しの範囲を照らし出した。
水瓶の置いてある辺りには、土埃があるのが見て取れた。

「ああ、リヴァイを呼んで来よう。紅茶の入る前に呼んでやらないと、機嫌を損ねそうだ」

「いいよ、寝てるのなら悪いよ。まだ身体も完全じゃあないんだろ?」

「最近は随分いいさ。ここら辺を散歩も出来る」

階段を上りだしたエルヴィンにハンジも付き従った。

「挨拶だけで、いいよ。今日は。早く戻らないといけなくて」

「そうか、団長様はお忙しいな。今度はモブリットも連れてきたらいい」

階段を上がってすぐに、扉がある。
開けると、一階とは打って変わって、随分とあかるかった。
窓からの光に目が少し眩んだほどだ。

日光に透かされ窓枠に凭れ掛かる人影は、頼りなく小さい。
万華鏡の中の砕けた硝子の粒のような光が、室内を眩く照らしていた。
なのに部屋の隅には煤を集めたような暗やみが蔓延っており、ハンジは背筋を寒くした。

「リヴァイ。ひとりで気持ち良く居眠りか?ハンジが来たぞ」

エルヴィンの大きな手に揺すられた肩は薄く、余分な肉が無い。

「……起きないなら、いいよ。エルヴィン。また来るから」

「そうか?しようのない奴ですまないな。まったく……」

折角だから、お茶だけ頂いて行くよ、と踵を返しハンジは先に階段を降り始めた。
エルヴィンは、窓枠へ寄りかかる傾いた肩へ毛布をかけ、ハンジへと続いた。

「おやすみ、リヴァイ。夕食には起こしに来るよ」



午後の光が冷たい体を貫くように刺している。
閉じられた部屋へ残されたのはただ一体の白い膚の人形である。




*



「……ああ……」

薄暗くなってきている道を急ぐ。
逃げるように早く歩く。殆ど走っていると言ってもいいほどだった。

何度叫びだしそうになった口を良心が押し留めただろう。
私の判断はあの時やはり間違っていた。あのふたりをあそこへ残すべきではなかった。
退役後、あの家には確かにリヴァイがいた。
最後まで戦い続けたリヴァイの身体は弱っていて、療養を必要としていた。
エルヴィンはその役を引き受け、あの家で看病していた。
一年ほど前だ。リヴァイは流行り病を受け亡くなり、エルヴィンはひとりになった。
彼は研究を放り出さず、仕事を続けていたから、私は少し安心していた。

しかし、あの家を訪ねるたびに、リヴァイの気配がする。
まるで彼が生きているように、エルヴィンは振舞うのだ。

エルヴィンは、リヴァイそっくりの人形を拵え、彼の看病を続けるようになった。

病んでしまったのだ、と哀しく思った。

しかし、リヴァイの気配は訪ねるたびに、濃くなっていく。

先日エルヴィンの寄越した手紙の追伸に、彼が生きていた頃のように、サインがあった。

"LEVI,"

細く偏屈なその字を、私はよく笑ったものだった。


「……ああ、まさか。まさか……」

私も、気が違ってしまったのだろうか?
狂人に接するうちに、自らも影響されてしまうというのはよく聞く話だ。
だが、私にはこれが自らの狂気のためと断じることは出来なかった。

『リヴァイ、』

エルヴィンが呼んだとき風も無いのにそよいだ髪は、ああ、あれはリヴァイのものだった。
彼の、烏の濡羽のような黒髪だった。
私があれを見間違えるはずがなかった。

「ああ、あれが、……あれが、いつか彼に?」

叫びだしそうな口をまた押さえて留めた。
私はいつまで正気でいられるのだろう?
恐ろしかった。

けれど、それが私と謂う女の因縁でもあるかのように、私は止められやしないのだ。
彼らに対する、あの、深いやみの淵を覗きこむような暗い好奇心を!





 

木製の窓
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