こどもと海
ある日、目が覚めたら敗北者だったので、海へ行こう。と思いついた。
何に負けたか、何故負けたのかは、思い出せない。
何か、大きな失敗をしたような、重大な選択を間違ったような、そんな気はした。
とにかく、車を走らせた。
海へ。
傷ついたものは、みな海へ行くのだ。
炭酸水をぶちまけたように爽快な青空が広がっていた。
道ゆく人はそんな空の様子など気づきもしないような重い足取りで、学校や会社へ向かっている。
それを遡るように、とろとろ車を走らせていると、群れから外れた羊一匹と、目が合った。
黒いランドセルを背負い、半ズボンからは硬そうな膝小僧が突き出ている。
目が合って逸らすこともせず、少年は真直ぐにエルヴィンを見つめていた。
エルヴィンが路肩に車を停めると、少年は引き返し、車までやって来た。
ジッと見つめる無感情な瞳に、エルヴィンは興味を引かれ、窓を開けた。
「やあ。」
「おじさん、これからどこ行くんだ?」
「海へだよ。君は?学校へは行かないのかい」
「行かない。」
「そうか。」
「おじさん、」
少年は窓に手をかけ、エルヴィンの耳に顔を寄せると、「おれも、連れてってよ。」とぼそと言った。
海、見たことないんだ。
不機嫌そうなままに、小首を傾げて、少し媚びたような声だった。
ランドセルを背負う年頃の子どもの声音ではなかった。
いや、そういう声音を使ったのは初めてだったかも知れないが、この子はその効果を知っている、とエルヴィンは思った。
「いいよ。」
行こうか、海。
エルヴィン・スミスはもうとっくに敗北していたので、これ以上まずいことは起こりようもない、と楽観的に判断した。
いや、その判断すらも、何かに疲れきってくたびれた脳が選んだ、より退廃的で不幸に浸っていられる選択だったのかも知れなかった。
それでも、エルヴィン・スミスは良かった。
旅は道づれ。
少年は、リヴァイと名乗った。
走り出した車は、敢えて高速道路には乗らなかった。
急ぐ理由がない。
リヴァイは暫くむっつりと黙っていたが、助手席の窓を開けてやるとホッとしたように息を吐き出した。
「おじさん、今日はお仕事お休みなのか。」
「ああ。」
「そうか。」
おれも今日は小学生、お休みにする。
抱えていたランドセルをぽいと後部座席へ放って、リヴァイは伸びをした。
身長のわりに、しなやかで長い手足だった。
子どもなどは外で遊ぶから、日焼けをするものだと思っていたエルヴィンはその白さにギョッとした。
しかし、自分の子どもの頃の不健康さを思い出し、そんなものか、とすぐに前へ向き直った。
リヴァイは窓の外に手を出して遊ばせている。
エルヴィンは、あまり外へ出すと千切れるよ、と脅してみた。
リヴァイは、千切れる前に、引っ込める。と少し口の端を上げた。
笑うことの下手な子どもだな、とそう思った。
途中、道沿いの商店へ入り、飲み物を調達した。
エルヴィンは安価な缶コーヒーを、リヴァイはラムネを買った。
「これ、開けたことねえんだ。はじめて。」
「そうか。今はあまり売ってないか?」
「ううん、たまに見かける。でも、買ってもらったこと、ない。」
そうか。とエルヴィンが見ていると、少し不器用そうな手つきで、リヴァイは手順を踏んだ。
見たことはあるんだ。開けてるの。
栓を押して。ビー玉が落ちるんだろ。
シュワシュワと泡が湧き出て、少し焦ったようにリヴァイはそれに口を付けて吸った。
「見た目より、甘いな。」
そうだね。と返事をして、車に乗るように促した。
車は峠を越え、いつの間にか、海岸線のすぐそばまで来ていた。
山と山を縫うように走り、あるときそれがぷっつりと切れると、右側に青く、また白く、光るものが現れた。
リヴァイは歓声を上げた。
「すげえ。」
海だ。とリヴァイは窓の外に手を伸ばして、眼前の青を掴もうとでもするように動かした。
「青い。思ったより青かった。」
「近づくと、そんなに青くないぞ。」
近づいてみるか?と訊ねると、うん。とリヴァイは素直に頷いた。
初夏になるとは言え、季節はずれの海水浴場の駐車場は殆ど営業していない。
どこに停めても一緒だろうと、船着場のようなコンクリート敷きの場所へ、車を寄せた。
「日ざしが強いな。」
車外へ出ると、硝子越しではない直射日光が、エルヴィンを突き刺した。
リヴァイはいつの間にか、砂浜へ降りようと駆けて行っている。
「おじさん、早く!」
海は逃げないぞ。と笑いながら追いかける。
少し早足になっているのは、自分も浮かれているからだろうか?とエルヴィンは苦笑した。
砂浜に立つと、足元が少し沈むような感覚がした。
「靴、気持ち悪ぃ。置いてこう」
早々に靴を脱ぎ捨て、靴下も脱ぐと、リヴァイはもうすっかり裸足になって駆け出した。
歩くうちに、細かい砂が靴の中に入ろうとするのを防ぐのが馬鹿馬鹿しくなって、エルヴィンは同じように靴と靴下を脱ぎ捨てた。
こうして素足で外を歩くのは、何十年ぶりのことだろう?
エルヴィンの足取りは軽く、先に波打ち際へと向かっているリヴァイにすぐ追いついてしまった。
「おじさん、早えな」
「足の長さが違う。」
波打ち際、波の掛からないギリギリを見つけたリヴァイは、少し躊躇した後、意を決したようにべったりとそこへ腰を下ろした。
「濡れるし、汚れるぞ」
「いいんだ。今日は。」
全部、お休みだから。
リヴァイがそう言ったので、エルヴィンもそれに倣うことにした。
同じように砂へ腰を据える。
湿った砂が尻に冷たかった。
波は追いかけるように迫ってきて、届かず引いていく。
それが繰り返し繰り返し打っては返すのを、ふたりでしばらく眺めていた。
「ほんとだ」
「うん?」
「遠くは青いけど、近くは違うな。透明だ」
「そうだな。」
「あと、波が白っぽい」
「うん。」
不思議だな。と言った後、またしばらく黙って、遠くを眺めていた。
砂浜に座っていた恋人たちがいなくなると、リヴァイはぽつりぽつりと話し始めた。
母と二人暮らしなこと。
引っ越したら、学校でうまくいかなくなってしまったこと。
飼育小屋のうさぎが一匹消えたこと。
引っ越す前の学校のほうが、給食がおいしかったこと。
今の学校のほうが、校庭の遊具が多いこと。
それと、最近、家に男が来ること。
その男を、何だか好きになれないこと。
話し出せば、リヴァイは意外に饒舌だった。
子どもとは好き勝手なもの、と思っていたが、リヴァイは遠慮がちだった。
遠慮して、諦めることを知っている気がした。
リヴァイは俯かなかった。
ずっと、とおく海をみていた。
エルヴィンは海を見に来たはずだったのに、いつからかずっと、リヴァイばかり見ていた。
リヴァイを見つめていた。
「おじさんの目、海の色が移ったみたいだ。」
だからそこらへんの水、透明なのか。とリヴァイはまた少し、笑った。
海の青を、おじさんが吸ったから。なあ、とエルヴィンを見つめて訊いた。
――なあ、おじさん、おれが見える?
リヴァイが訊いた。
――見えるよ。
エルヴィンは答えた。
「――おじさん、車戻ろうぜ。肌がべたべたしてきた」
エルヴィンを見つめるリヴァイの目は、灰色が固まっていた。
灰色の瞳に、海の青は移らなかったのだろうか。
アレをすると、大人になるんだ。
大人にならないと、あの町を出られないんだ。
「だから、おれ、今日は子どもやめたから」
車に戻ったリヴァイは、運転席のエルヴィンの膝に跨って言った。
エルヴィンと同じ目線になったリヴァイは、半ズボンのチャックを自分で下げた。
「だから、おじさんがアレして、大人にして。」
顎を引いて上目遣いになった灰色の瞳に、エルヴィンの姿が写っていた。
エルヴィンは、リヴァイに招かれるままに、リヴァイのTシャツを捲くり上げ、肌に触れ、唇で触れた。
すべすべとした肌を、少し恐ろしいと感じたが、すぐに忘れた。
空調の効いていない車内は降る日射しで温められ、むうっと湿った空気で籠もってしまった。
小さな乳首を食み、舌で転がすと、リヴァイは「あ。」と声を出すようになった。
高い声をもっと聴きたくて、首を噛み、喉を舐めた。
汗で少し塩辛いリヴァイの味は、舌に乗せると甘かった。
Tシャツに顔を突っ込み、夢中で舐めた。
「ああ、あ。」
リヴァイは時たま息を詰まらせたように喘ぐ。
ぱくぱくと息を吸う小さな口は、唇で塞ぐとエルヴィンの口が大きく感じた。
「おじさ、ん。」
おじさんも、脱がねえと。
リヴァイはエルヴィンのスラックスに手をかけ、ジッパーを下げた。
「出して。おじさんの」
請われるままに怒張したモノを取り出した。
リヴァイは少し困ったように、大きい。と言った。
膝をずらし、運転席の足元へリヴァイが潜る。
エルヴィンの開いた足の間に、小さなリヴァイはすっぽりと納まってしまった。
リヴァイは、瞼を半分ほど閉じて、エルヴィンのペニスを口に含んだ。
小さな口では、先の方を銜えるのが精一杯だった。
一度吸い上げ、今度は舐め上げるように舌を使われる。
エルヴィンの、浮き出た血管の上を物珍しげにひらひらした舌が行き来した。
「ああ、……リヴァイ。どうして、」
どうしてそんなことを?
何度も舐め上げられ、息を上げるエルヴィンは苦しげに唸った。
「母さんが、やってるの、見た。」
クローゼットの中から。
リヴァイはそう付け足し、行為に没頭し始めた。
亀頭の先をちろちろと舐め、穴をこじ開けるようにしてくる。
えらの張った部分にリヴァイの唇の輪が引っかかるたび、エルヴィンが「う。」と声を詰まらせるので、
リヴァイはそれを嬉しそうに目だけで見上げ、何度も同じ動きを繰り返した。
エルヴィンからは、リヴァイの奇麗に刈り上げられたうなじが見える。
そのうなじに、玉のような汗が浮いて、揺れて、落ちる。
「ああもう、リヴァイ。リヴァイ……、もっと、銜えて。」
奥まで。
喉へ挿しこむように、ぐっと突き入れる。
「ふぐ、うう!」
リヴァイが少し不満げな籠もった悲鳴を上げたが、構いはしなかった。
いたわってやる優しさなど、どこかへ飛んでしまっていた。
リヴァイのまるく、小さな頭を掴むと、乱暴に行き来させた。
「グ、ふう、んんッ」
リヴァイがくぐもった声を出すたび、喉の奥が締まり、たまらない。
グチュッグチュッとひどい音がして、それにも煽られてしまう。
リヴァイが、エルヴィンの膝に爪を立てる。
モミジのような手が、白くなるほどにぎゅううと握られると、リヴァイが顔を上げた。
「んん、ンッ、ん!」
唾液でぐちゃぐちゃに濡れた顔は女のようで、しかしやはり少年のものだ。
眉根を寄せ、けなげにこの乱行に堪えている。
「ああ、リヴァイ……ッ、リヴァイ、だすよ、ああ、出る」
「んンッ、う!ンン!」
縋るようなリヴァイの灰色の瞳は潤んでぐずぐずになっている。
まばたきをすると、その溶けたような目から涙がぼろ、と落ちた。
灰色にほんの少し、交差した青が混ざっている。
「ンん、ンぅッ、う、ゥ」
開いていられなくなったのか、リヴァイの歯の感触を、かすかにそこに感じた瞬間、すべて出してしまっていた。
「うッ?!ン、ん……う……」
どく、どく、と脈打ち、擦られてか熱くなっているリヴァイの口内をさらに熱い液体が満たしていった。
排出するたびに頭の焼けるような快感がエルヴィンを襲い、リヴァイを離せずにいた。
「うう!うー!」
殆ど泣いているような有様のリヴァイに銜えたまま小刻みに頭を振られ、エルヴィンは漸くリヴァイを解放してやることが出来た。
リヴァイが勢いの失ったそれから口を放すと、だら、と白く粘度の高い液体が落ちた。
リヴァイは手のひらを使ってそれを受け止めると、少しの間呆然と眺めていた。
「はあ、ハ……、すまない、リヴァイ」
呆けたままのリヴァイの手をティッシュで拭ってやり、口もとも同じようにしてやると、
ぽうっと色づいた頬を寄せるようにして、リヴァイがまた膝へ乗り上げてきた。
「おじさん、べろ。」
「ベロ?」
べえ、と舌を出すと、リヴァイはそれをちゅうちゅうと吸い上げた。
「おれのも、」
べ、とリヴァイが同じように舌を出したので、エルヴィンは素直にそれを吸った。
自分の精液の生ぬるく、生臭い味がしたが、一緒にリヴァイの甘い唾液の味がして、夢中で吸い続けた。
暫くすると、リヴァイの味ばかりになって、エルヴィンはうっとりした。
「ん……」
満足したのか、リヴァイは口を離した。
ふたりのあいだに唾液の透明な糸がひいて、エルヴィンは名残惜しげにそれを舌で切った。
リヴァイは紅潮と瞳の潤みはそのままだったが、決然とした顔をしていた。
何か、彼の中で大きなことが決まったような感じだった。
「もう、子どもじゃなくなった。」
アレしたから。
母さんとおんなじになった。
「町を出る」
親戚の伯父さんのところへ、行くんだ。
遠いところ。大人にならないと、行けないところ。
リヴァイはそう言った。
衣服を一緒に整えて、車を出した。
リヴァイは、海を振り返らなかった。
エルヴィンは、何度も、何度も振り返った。
あの海の青色が、ずっと自分に残ればいいのに、とそう思った。
せめて、あの色くらいは、自分に残ればいいのに、と。
海岸から一番近い駅に、リヴァイを降ろした。
「お金、あるのか。」
「うん。あいつから盗んできた。」
「そうか。」
「うん。」
気をつけろよ。とエルヴィンは言った。
うん、おじさんも。リヴァイは言った。
リヴァイは思いついたようにラムネの瓶を割って、ビー玉を取り出した。
「おじさんに、やる。今日のお礼」
海、きれいだった。ありがとな、おじさん、元気でな。
手を振って駆け出したリヴァイの後に、色が残っているような気がした。
鮮やかな残像。
たぶんこれから、青色に焼きついて離れない。
車を出した。ロータリーを、車はゆるく走り出す。
リヴァイは強く手を振っている。
「千切れるぞ!」
叫んだ。走って行く。どちらも止まらず、走って行く。
リヴァイは笑った。
今日見た中で、一番上手な笑い方だと、エルヴィンは思った。