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はるのおとずれ






亭主がある。

亭主といってもそう大したものじゃなく、籍なんかも入っていない。
そもそもが男同士だから、所帯を一緒にしようと思えば養子縁組だかしかない。
安月給の教師ふぜいが借りられる程度の、ガタピシのこの借家に、野良猫が上がりこむようにあれが住まわってから二年は経つ。
そのあいだ、将来の約束なんかは口にされていない。また、俺も問うようなことはしていない。
ふんわりした言葉は貰っても、何一つ先に進みやしないのだ。

同性愛者なのだと気づいてからこの方、碌な男に出会っちゃいないが、あれは中でも一等ひどい。
日がな古本を読んでは、何事か書き散らしたり、庭先にやってくる猫や犬なんかを手なづけたり、昼寝したりのいい御身分でいらっしゃる。
三度の飯の用意ですら、日中外であくせく働く俺の仕事になっている。
昼は適当に焼き飯やうどんなんかを朝の内に拵えておくか、小遣いを置いておく。
札なんかを置いておくと大概はパチンコ玉やら馬券やらに化けるから、置くならほんの小銭。

今日の昼間は暖かかったものだから、梅咲く今の季節には早過ぎるが、あいつの好きな冷やし中華を作って置いた。
それでも夜になれば冷えるもので、春物のコートをおろしたのを後悔しながら帰宅すると、冷蔵庫に手付かずのまま、それはあった。
仕方が無いので、買って来ていた魚をしまい、温かい汁物や何かと冷やし中華を食卓に出した。


「ああ、帰ってたのか、リヴァイ。おかえり。」

振り返ると、ぐうたら亭主ことエルヴィンが立っていた。
どこへ出掛けていたものか、少し余所行きの白いシャツと灰色のズボンを着ている。

「……ただいま。お前こそ今帰りか。肌寒いのに悪いが、今日の昼の残りの冷たいのだからな」

「いいよ。ビールある?」

一本だけだぞ、と冷やしておいたのを取り出して、食卓についた。

「いただきます。」
「いただきます。」

かちゃと箸を取り、季節に早い冷やし中華を啜る姿は、成る程、男前だ。
彫りの深い顔立ち、形良く高い鼻、色よい唇。
よく言えば居候か食客、有り体に言えばヒモなのだが、どうやら俺はこいつに相当惚れているらしい。
もそもそと飯を口に運んでいる今も、その顔を見ていて飽きるということがない。
つくづく面食いだと、自嘲して溜め息を吐き、みずからも食べ進む。

「冷やし中華か、早過ぎないか?」

「好きだろ」

「そうなんだが、なんかもう、季節が分からないな。気温も、昼は暑いくらいだったのに、夜は寒いし。」

「季節の変わり目だからだろ。体調崩しやすいからな、上着は持って出ろよ」

「ああ。お前もな。」

食事の時間にはテレビをつけない。
お互い特に話すこともなく、しずかな食卓が続いていたが、おもむろに、思い出したかのようにエルヴィンが言った。

「……そうだ。リヴァイ、あの、前にお前の作った、あれが食べたいんだが。旨かったな、この時期に出たろ、ぐるぐるした野草みたいなやつだ。」

「……ゼンマイか?」

「そう!そんな名前だったな。なるほど、ゼンマイか。似てるな」

「……俺はお前にゼンマイ出した憶えはないが。」

「……。」

色男の目線はツイと逸らされ、手元は剥げかけた塗り箸でキュウリなんかを揃えて摘んでいる。
この男は野良猫と同じく、あちらこちらに別宅があるようで、ふらっと数日居なくなってはまたふらっと帰ってくる。
ナニをどこで、いや何をどこでしているかは知らないが、まあどうやら本宅と決めているのはここのようなので、小言は言わないようにしている。
何も言えない、といった方がいいのかも知れないが、数日のことなら、まあ俺は目くじら立てて怒るようなことはなかった。



そんな会話をして、気まずかったのかいつもの気紛れなのか、今回もまたあいつが姿を消してから五日が経つ。


癖のようなもので、夕飯はふたり分拵えてしまう。
重くないものなら次の朝食べればいいし、特にこだわりなんかはないから、同じ献立でも自分ひとりで食べるのなら構わない。

だから別にあいつが帰ってこないことで、俺が困ることは特に無いのだった。
食費は少なく済む。洗濯の量も減る。掃除をすれば、落ちている埃や髪の毛なんかも、ふたりとひとりでは違うのだ。
六畳間にのべる布団が一組になって、部屋が少し広くなるし、吸える空気だって増える。

ただ、ひとの気配の無い借家はシンと静まりかえっていて、家主であるのにどこかはじき出されたような気持ちになる。
夜中によくあれがする、コンという小さな咳も、日がな何もせず居るのにグッスリと眠り込んだ高鼾も、何も聞こえない。
時折、コチコチコチコチと居間の壁掛け時計の秒針の進む音なんかに耳を澄ましてしまい、気になって寝つけなくなる。
それぐらいのことだ。人ひとり、あいつひとりいないということは。



だいぶ暖かくなってきても、ぐずぐずと片付けないままにしていた食卓代わりの炬燵で、ついウトウトとしてしまっていた。
あいつが居ない間だけの、つまらない悪癖だ。

カラと戸の引かれる音がして、ああ、帰ってきたな、と夢うつつに思った。
またここで寝てたのか、とあいつが小憎たらしく笑って、俺はそれに、別にいつもって訳じゃあないと不機嫌に返す。
そして、おかえり、ただいま、と何事もなかったかのように声を掛け合って、それで。

「にゃあ。」

軽く腕に当たった感触に、ぱちと目蓋をあけると、シャツの袖に猫の爪が掛かっていた。
よく縁側から入り込んでくる野良猫の一匹だった。エルヴィンなんかはシマとこいつを呼んでいる。

「……なんだ、お前か。」

エルヴィンではなかった。無意識にその存在感を探そうとしていたことを少し恥ずかしく思った。
居なくなるたび、すぐ帰ってくるだろうという気持ちでいるのに、日が経ってくると、もう帰ってこないかも知れないという気弱さが少しずつ大きくなっていく自分がいた。
女々しいな、とすっかり癖になった溜め息を吐く。

傍らの猫を抱き上げ、頭を撫ぜる。猫はまたにゃあと言った。
野良だから、猫どもには首輪もない。首が、やわらかかった。

「……今度こそ、帰ってこないかもな。なあシマ」

「誰がだ?」

ガラリ、居間の硝子戸が少しざらついた音を立てて開いた。
鴨居をくぐりひょこと出したのは放蕩野郎の呑気者のヒモ亭主だった。

「……エルヴィン。」

「うん?ただいま。猫もう一匹入ってたぞ。炬燵に入れてやろう」

エルヴィンは、よっこらせと猫を抱えて座り込むと、炬燵に猫と長い脚を入れた。

「今日のレースで勝ったら、ゼンマイ買ってこようと思ってたんだが、まあ、負けたよ。」

負けるためにレースはあるんだな、と飄々と言い放ち、蜜柑を手に取った。

「……ゼンマイには少し季節が早い。まだ市場なんかにはねえよ。都会もんには分からねえだろうが」

「そうか。」

「そうだ。……おかえり。ゼンマイじゃねえが、つくしの煮たのならある。俺もまだ食ってないから、飯にしよう。」

鍋に火をかけ、煮物を温め返す。あるのは干し桜海老なんかが混ざった出し巻き、炊いた米、つくしの煮物、その程度だ。
深夜と呼ぶには少し早い午後十一時、このくらいの軽い物でいいだろう。
俺も、ぐうたら亭主も、そう油物ばかり欲しい年でもない。
つくしの煮物にカツオ節をかけて、卓に載せた。

「いただきます。」
「いただきます。」

カチャカチャ、ふたり分の箸の音がしずかな居間に響く。
炬燵の中で猫たちがプースーと、かすかに鼾をかいているのが聞こえる。
箸と膳の音で消えるような、ちいさなちいさな鼾だった。

「かつおぶしが踊ってるな。」

「そうだな。」

「また季節になったら、ゼンマイ買ってくるし、来年は俺がつくしを煮るよ。」

「お前、飯も炊けないだろ。やれっこねえよ。」

「やれるさ。ああ、何ならお前の田舎に行こうか。つくし採ろう。親御さんに挨拶もしなきゃな。」

「親父に殴られるぞ」

「いいさ。な、行こう。」

その日暮らしのふんわりした言葉だった。いつものことだ。
先のことなんて、こいつは何も保障してくれやしない。
なのに、心底から信じたくなるような、まっすぐでうつくしい目をしている。それを指で突いてやりたくなる時がたまにある。
だいたい、こんな毎日だ。

どこでどうしていたのやら髭なんかを生やして帰ってきても、むしろちょっと上がったような色男ぶりに、また溜め息をつくしに含ませて、腹立たしいまま、食べた。


「俺はな、だいたいを許しちゃいるが、お前のそういうところは嫌いだからな。」

ぎろと睨みを効かせるが、惚れた弱みか視線では殺せなかった。
あいつは出し巻きをつつきながら、おお怖い怖い、なあシマ、と猫なんかに語りかけている。
猫は知った風に炬燵の中でにゃあと鳴く。


ふたりと、二匹分の音が、ガタピシの家の中でわりとうるさい。
いつのまにか、すっかり春が居座っていた。






 

障子
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