迷彩
禁煙した。そして海に来た。俺の住んでいる、自宅と呼ぶべきか寝ぐらと呼ぶべきか分からないような狭く薄暗い部屋の中で、ちいさな身体をちいさくして、窮屈に正座をするリヴァイくんを見ているのがイヤになったからだった。正座して、ちっぽけな折りたたみのチャブ台に、宿題のノートと、シャーペンと、小指の先ほどの無地の消しゴムと、消しゴムのカス(端にキッチリと集められている)をめいっぱいに広げて俯いているリヴァイくんは、ただの中○生だった。中○生でなきゃ、返却された数学のプリントの名前のところ、修正ペンで消した上から『リヴァイ・スミス』なんて書いて持ち歩かない。くだらなくて、痛ましい。痛ましいのは良くない。だから俺は禁煙して、彼を海に連れてきたのだ。
連休明けの平日の海辺の町には誰もいない。海岸沿いの道をぶらぶらと当ても無く歩く。堤防の上は景色がいい。黄土色に藻とゴミの散らかった砂浜。水面だけは鄙びた町並みに似つかわしくなく、きらきらと光っている。
リヴァイくんは制服のままだった。補導されたら何て言うんだ、とちょっと気にしている。俺はそれに、親戚の法事ですとでも言ったら、と返しながら、パーカのポケットに手を突っ込んだ。そしてそこに潰れた煙草のソフトケースとジッポが入っているのに気づいて、舌打ちした。
「ねえ、預かっておいて。」
「え、ッわ」
堤防の上からポンとジッポを放る。リヴァイくんは慌てながらも驚くべき反射神経でそれを受け取った。
「吸おうとしたら殴っていいよ。」
と言うと嫌そうな顔で、分かった、とリヴァイくんは言った。
寂れた土産物屋には、積まれた乾物と、生臭い魚の入った発泡スチロールが外に出されて日焼けしている。店の隅には色褪せたぬいぐるみや、ファンシーなキーホルダーが雑然と並べられて、いつか買われて店を出るのを待っていた。
「何か、買えば。お菓子とか」
「別に、いい。」
「おもちゃとか。その歩くイルカのやつとか」
「子供かよ。そもそも、イルカは歩かないし」
「そうだっけ。」
子供だし、イルカは歩かないし、お菓子を買っていく先もなかったね、と思ったが、俺は黙って試食のえびせんを抓んだ。えびせんは塩辛く、湿気ている。
店内を見て回っていたリヴァイくんが、はたと立ち止まった。覗き込んで、指先で触れている。それは土産物屋によくある、ちゃちなファッションリングにも満たない、おもちゃみたいな指輪だった。イルカがぐるっと指を巻く、しょうもなくて、吐き気がするほどダサいやつだ。リヴァイくんはそれを指に嵌めると、暫く眺めて、また箱に戻した。俺はそれを見なかったことにして、そろそろ行くよ、と声を掛けた。リヴァイくんは、ああ、と言ってすぐに寄ってきた。イルカの目に嵌っているのは、嘘っぱちな青色の石だった。
その時気がついたけれどリヴァイくんの制服はいつの間にか夏服で、半袖から剥き出しの二の腕は、五月にはまだ寒そうに思った。リヴァイくんは結局何も欲しがらず、俺はラムネを二本買って店を出た。
リヴァイくんはいつでもそうだった。何も強請らず、欲しがりもしない。よくしつけられているのとも違う。リヴァイくんは何でも俺にくれる。身体も、心も、判断も、全部俺なんかに委ねてしまえる。俺は中◯生をホイホイハメてしまうような頭のおかしい屑なのに、リヴァイくんは信頼の天才なのだ。欲しがり方を知らない、無垢な瞳がかなしくて、痛ましくて、良心か仏心か、何か分からないやさしい気持ちが湧いて、ああ何かしてあげなくちゃと思ったりもする。パチンコ屋の景品にブランド物の財布を見つけて、こういうのとか、と悩んだりもしたが、それは結局現金に化けてしまった。向いていない。罪悪感から、端数はみんなアーモンドチョコに換えて、リヴァイくんにやった。あっそ、さんきゅ、とぶっきらぼうに返すリヴァイくんの耳は赤らんでいた。アーモンドチョコを大事そうに抱えていつまでも食べやしないので気まぐれに手から与えてみると、面白いくらいよく食べた。食べ過ぎて鼻血を出して、鼻に詰めたティッシュを恥ずかしがっていた。アーモンドチョコをいっぱいに含んだ頬がまるくて可愛らしくて、また少し胸が痛んだ。可愛らしいのはいけない。痛ましくて、いけない。
だからせめてと、禁煙を始めた。俺のアパートの柱で身長を測って、ついでにと俺のも測って、こんなに違うんだ、なあ俺もいつかそんなにデカくなれるかな、なんてリヴァイくんが言ったからだ。子育てなんて経験の無い俺でも、成長期の子供に対する煙草の煙の害のことは知っている。『たばこの煙は、あなたの周りの人、特に乳幼児、子供、お年寄りなどの健康に悪影響を及ぼします。喫煙の際には、周りの人の迷惑にならないように注意しましょう。』『未成年者の喫煙は、健康に対する悪影響やたばこへの依存をより強めます。』。最後と決めた一本を吸い終わると、注意書きごとケースを握り潰して、屑カゴへ投げた。
堤防に腰掛けてラムネを飲んだ。真昼の海にラムネはよく合う。指と唇が寂しく、煙草が吸いたくなる。ラムネの瓶を齧る。
「冬の海ならもっと、駆け落ちみたいになったのに。」
「…………ばかじゃねえの。」
冗談を言ったのに、頬を染めて俯いてしまった。堤防から投げ出した脚をぶらつかせている。コンクリートに白い運動靴が当たっていて、それが可愛かった。そして、ああまた良くないことをした、と後悔した。
後悔したので、物陰に引っ張りこんだ。手を引いて岩場の陰まで連れて行くと、きょとんとした顔で見上げている。
バカなのだ、この子は。こんな人間の屑を、信用してはいけないよ、碌な大人にならないと言ってやろうかと思ったが、口寂しさが勝った。キスをしてやろうと思った。一先ずと抱き締めると、リヴァイくんの背中の薄さが恐ろしかった。首筋から覗く素肌が恐ろしかった。漂白剤に漬けてやたら白くなった運動靴も、反った指も、黒髪も、涙目も、みんな恐ろしかった。だからひたすらに強く抱き締めて、キスをした。めちゃくちゃにキスしてやろうと思ったのに、最初はそっと、触れるようにしか出来なかった。唇に唇で触れる。
「震えてる。」
「うん。」
「ニコチンのキンダンショウジョウってやつか?」
「うん。」
そう。だから慰めて、と言ってまた抱き締めた。リヴァイくんは最初抱かれるままにされていたが、そのうちに俺の背中に手を回して、抱き締め返してくれた。剥き出しの二の腕は冷えきっているのに、バカな大人を本当に慰めようとしてくれているのだった。
「……舌、出して。」
「あ、…………ぇ」
遠慮がちに差し出された舌を吸う。ラムネの甘みが残っている気がした。舌の裏のぬるぬるした部分を舌で突付いていると、どんどん唾液が溢れてくる。リヴァイくんは、どのタイミングでそれを飲み下そうか迷っているようだった。
「飲み込まないで、舌に溜めて」
「……?」
「飲ませて」
俺が言うと、リヴァイくんは生え際までカッと赤くなった。リヴァイくんは戸惑って暫くもごもごとやっていたが、観念して口を開いた。
薄い唇が光っている。小さな貝殻のような歯が並んでいる。丸められて器のようになった舌の上で、泡立った唾液が、岸壁に打ち付けては砕け散る白波のようだと思った。
舌を差し入れると、微温かった。舌全体を口に含み、唾液ごと吸う。ジュウ、と啜る音と感触に、リヴァイくんは真赤になって震えている。何度か吸っていると、リヴァイくんが「んん」と首を振る仕草をした。どうしただろうと少し離れると、リヴァイくんはまた口を開いて、
「……あ。」と声を上げた。どう見てもそれは催促で、リヴァイくんに強請られている、と思うと股間が熱くなった。そしてその自分の反応に、どうしようもない屑だなあと苦笑した。
「……飲みたいの?」
小声で聞くと、リヴァイくんはこくんと頷いた。幼い仕草に胸が締め付けられる。可愛いのはいけない。
「開けてて。」
リヴァイくんは言われるままに、口を開いて待っていた。細い眉毛が下がった困り顔で、瞳は濡れて、開いたままの口内も濡れている。
口の中に湧いてくる唾液が十分に溜まり、俺は「ん。」とリヴァイくんに合図した。リヴァイくんはどきどきしているような顔で、俺の上着の胸の辺りをギュッと掴んだ。指の先が白んでいる。
口を開ける。舌を出す。リヴァイくんの開いたままの口の中、舌の辺りへ、唾液を垂らしていく。つう、と垂れた細い糸のようなそれがリヴァイくんに垂れていくのを見つめた。リヴァイくんは、それがとても甘く美味しいものであるかのような表情で、嬉しそうにしている。垂らしきって口を閉じると、リヴァイくんもそうした。そして、コク、と音のしそうに飲み干した。喉仏が小さかった。波の音がざあ、ざあとうるさくて飲み下す微かな音が拾えなかったのを、とても残念に思った。
結局その後、唾液や精液を夢中になって飲ませ合って、ラムネの瓶もいつの間にかどこかへ行ってしまった。口寂しいのが治まらず無意識に爪を噛んでいると、リヴァイくんが俺に向かって何かをポンと投げた。反射的に受け取る。手のひらに持ち余る金属の重み。リヴァイくんに預けたジッポだった。
「我慢とか、アンタらしくないだろ。不気味すぎる。」
「そう。」
「うん。」
「……ねえもうずっと、ここに住もうか。俺は漁師になって、リヴァイくんは土産物でも売ってさ。楽しいかも。」
笑った。冗談だし、リップサービスだった。だって俺がリヴァイくんにやれるものと言ったら、唾液か精液、あとは薄っぺらな愛に似たもの。それくらいしか無い。
身を削って、リヴァイくんに捧げられるだろうか。リヴァイくんから、これからを奪えるだろうか。分からなかった。分からなくて、怖かった。
リヴァイくんは苦笑して、俺からジッポをまた取り上げた。
「いい、別に。」
それより煙草、一本くれよ。アンタ美味そうに吸うから、とリヴァイくんが言うので、俺は震える手で煙草を取り出した。咥えさせて、火をつける。思ったよりずっと達者に吸って、リヴァイくんは満ち足りたような顔で笑った。紫煙は潮風に混ざって、白波の一部になった。