風邪と猫
運が悪かった。
昨晩帰宅してポッポッと熱い顔でどうにか寝間へ倒れ込んでからどうにもこうにも、動けなくなった。畳は硬くて寝心地は最悪だし、穿いたままのスラックスはベルトを抜くことも出来ていない。
今日の私は運が悪かった。
昨日は出張で、それに合わせて妻♂を町内会の慰安旅行へ出ている。
飯も炊けねえ亭主を置いていけるか、だの、洗濯物を黴させる奴を野放しには、だの言って遊びに出ない妻に、一日くらい私ひとりでやれると言って送り出したのだ。
妻は非常に甲斐甲斐しい男だったので、私がチラシの裏やら藁半紙やらへ考え事を書き付けてそこらへ散らしている後ろから付いて回っては紙屑を拾ったり、捜し物のためにひっくり返した本棚を、読書に没頭したままの私に代わりキッチリと整頓してくれるなど、結婚して数年余、彼に頼り切りの生活となっている。
その結果、体温計や解熱剤の入った薬箱がどこにあるか、私には皆目見当がつかないのだ。
私の妻リヴァイは掃除上手なのは結構なのだが、何でもかんでも仕舞い込む癖がある。
部屋の目につくところへ物を置いたままにせず、抽斗でも納戸でも押入れでも、とにかくすべての物を収納してしまうのだった。
リヴァイ自身は把握しているために私の欲しいものをパッと魔法のように差し出せるのだが、普段仕事にかまけて家事に携わることのない私だと、それぞれの収納場所がサッパリ分からない。
体温計、解熱剤、栄養ドリンク何かも欲しい。そもそも喉が渇いている。水を一杯もらいたい。
いつもなら、おおいリヴァイ、と言えばスッと出てくるそれらのものが、今は遠い。
這って布団から一番近い押入れを開けてみたものの、事態はよりいっそう切迫してくる。手前の小箱を手に取ったのだが、これを引き抜いたら絶対に一角が崩れる、一角で済めば良いが事によると全部崩れる、しかしピッチリと隙間無く収まったこの奇跡のバランスはどうか。妻は掃除を始めとした家事にしか趣味の無い男だと思っていたが、このみっちりと詰められた押入れを見ると、もはやこれは趣味ではないかという気がしてきた。まるでパズルのように箱や筒が組み合わされ、幾何学模様のようになっている。どういう手間だ。
無理だ。
ハイ無理、と早々に諦める。
諦めたものの、ついウッカリ手に取ってしまった小箱は半端まで、いやもう殆ど抜けてしまっている。
押して戻すか、引いて抜くか。
よし、押して戻そう、なるだけ慎重に、と手を震わせながら箱を左右に小刻みに揺らして押し出す。
ジェンガの逆の要領である。
よしもう少し、とその時、背中に悪寒が走った。
ゾゾゾ、と震えたあと、ハクション、とくしゃみが出てしまった。
「ワーッ?!」
小箱がその拍子に勢い良く抜けた瞬間、ガラガラガラッとその他の箱や筒や籠が崩れ、私の上にドサドサと降ってきた。
あっという間に箱たちに埋まってしまい、私は熱で回らぬ頭でボーッとしたまま、ハハ、と空笑いした。
荷物に埋もれ身動ぎも出来ず、力無く首だけを動かすと、縁側の猫と目が合った。
妻の髪とソックリの、艶々とした毛並みを持つ黒猫だった。
オヤ瞳の色まで一緒だハハ、墨を付けた筆先を、水へ差したような色だよなァと思ったところで、目の前が暗転した。
ヤカンがシュンシュンという音の立つので目が覚めた。
いつの間にか私は布団に入っており、帰宅したままの背広でなく、寝間着を着ている。額にはどうやら濡れた手拭いが乗せられているようだ。冷やっこくで気持ちが良い。
温かく柔らかいものに包まれている幸福感と、寝間着の胴回りの楽さとでフウと満足なため息を吐くと、襖が開いた。
「……何だ、もう起きたか。」
「リビャ……ッゲホッ、ゲホッ!」
妻の姿に思わず出しかけた大声はカラカラの喉に引っかかり、咳になってしまった。
「馬鹿、水飲め」
ほらよ、と吸い飲みを唇へ差し出される。
冷たい水が五臓六腑に染み入るようだった。
「リヴァイ、お前……旅行はどうした?」
リヴァイは旅装の余所行きの着物に割烹着を引っ被っただけの格好をしていた。寝間の端には旅行鞄がチョコンとあったし、土産屋の物だろう紙袋も傍らにあった。
「ああ、途中で帰ってきた。向かいのアルレルトの家の坊主に、御主人が家で倒れてるみたいだと電話を貰ってな。何かあったら報せてくれと頼んでいたのがマア、無駄じゃなかったみてえだな」
リヴァイはお盆の上の粥を混ぜて冷ましながら、そう言った。
「アルミンが?ああそうか押入れの雪崩の音か……?
リヴァイすまない、薬箱を探していて、それで……」
「ギッチリ詰めてた俺も悪かった、気にするな。アレをやり始めるとどうにも楽しくてな」
「そうか……」
「そうだ。起きられるか?薬を飲む前に何か腹に入れろ。お粥さんは梅干しにした。もう少し具合が良くなりゃあ、晩には卵入れて雑炊かうどん作ってやる」
「ああ、じゃあ鳥の入ったのがいいな。カマボコも」
「食欲はあるな。果物も剥くか、林檎か梨か、ミカンの箱は来週届くんだったか」
ミカンの缶ならある、ああ桃缶もあるな黄色いのしかねえが、あと、とリヴァイは指を折り缶の在庫を数え始めた。
ピシッとアイロンで折り目のついた掛布の覆い、買った覚えの無い寝間着と下着。
温かい粥と、季節の果物。
リヴァイは私の額の手拭いを洗面器へ浸けて濯いでいる。
氷の入った洗面器へ差し込んだ指の先が赤らんでいる。
「林檎のすりおろしたのにするか?エルヴィン」
「いや、うん、有難いが、その、何というか」
「何だ」
「……もうリヴァイ無しで生活出来る気がしないな。」
お前と結婚する前はそれなりに生活していた気もしたが、今思い返せばアレは生活じゃないな、と言うと、リヴァイは手拭いをキュウと絞ってこちらを向いた。
「そう仕向けてると言ったら?」
「え?何だって」
「何も言ってないが」
おらとっとと食え、それで薬飲んで寝ろ、とリヴァイは濡れた手拭いでピシャリと私の額を叩くと、微笑した。
細められた目がやっぱりあの猫に似ていて、私は、不思議に安心した。
安心すると、腹の虫が鳴いた。